2019年4月3日水曜日

病理の話(310) カニなんてすたれさせてしまえばいい

何度か書いてきた話なんだけど、たまたまツイッターでカニに関する高度な話を見たので、今日は「がんとカニのこと」を書く。



ギリシャ時代ころ、人々はまだ「がん」という病気の全貌を把握していなかった。

当然だ。そのころ、手術はなかった。解剖という習慣も存在しなかった。そのため、お腹の中にできる、胃がんや大腸がん、肝臓がん、肺がんなどは、認識しようがなかった。

ところが、当時から「がん」という言葉はあった。Cancerとかcarcinomaという言葉は、ラテン語に端を発するとても古い言葉である。


(※余談だが、ギリシャ時代くらいから認識されている病気には、単語一語のいかにもオリジナリティあふれる名称が付けられている。たとえば喘息 asthma は非常に古くからある病名で、一語でスッキリとしている(独特なスペルだ)。反対に、つい最近認識された病気は、複数の説明的な単語を使った名称が付けられていることが多い。たとえば潰瘍性大腸炎 ulcerative colitis はいかにも説明的な病名だ。この分け方でいうと、carcinomaは「古くからあるほうの名称」に属する。)


では、当時の人々は、お腹の中をみる方法もない時代に、いったい何を「がん」と呼んだのだろうか?




すぐに答えを言う前に、もう一つ、大事な前提知識について語っておかなければいけない。

昔は今と比べて、平均寿命が滅茶苦茶に短かった。

理由はあきらかだ。感染症が多かったからである。

今より衛生環境が悪い。ワクチンだって存在しない。ケガをしたら破傷風のリスクが高いし、流行病も今よりずっと激しかった(ワクチンというのは偉大なのだ)。

そして、数ある細菌感染症に対して抗生剤が使えなかった。コレラ、赤痢、結核。すべてに対して人類はずっと無力だった。

人々はみな、成人する前に、ころころ亡くなっていった。

平均寿命は(きちんと調べてないけど)、おそらく30代とか20代くらいだったはずである。

中には長く生きる人がいた、といっても、60歳とか70歳を越えて生きる人は今よりずっと少なかったろう。長老というのは本当にレアキャラだったはずである。

すると、高齢者がかかる病気である「がん」には、そもそもなる人が少なかったと推測できる。



すなわちギリシャ時代とは、がんになる人自体が少なく、がんにかかってもそれを見ることができない時代であった。

そんなころから、がんという言葉だけがある。これは不思議ではないか。

いったい、当時の人は、何を「がん」と呼んだのか?




これはおそらく乳癌であろうと言われている。

乳癌は、女性ホルモンの影響下に出現しやすいがんである。発生しやすい年齢は40代後半から50代前半。30代くらいから出現する場合もある。ほかの臓器のがんと比べると、患者が認識できるサイズに育つ年齢が、やや若い。

そして、体の表面にあるというのも見逃せない。胃や大腸、肝臓、肺などと違って、乳腺は自分で触ることができる。しこりを感じることもできる。




つまりギリシャ時代の人が考えていた「がん」とは、今のように全臓器に出現する病気ではなかった。おそらくはがんイコール乳がんだった。

(あとは皮膚がんも認識されていただろう。けれども、皮膚がんのうち、わりと若い年齢から出現するものには、別の名前が付けられた。悪性黒色腫 melanoma である。あらゆるがんの中で、悪性黒色腫がメラノーマというとりわけオリジナリティあふれる名前を付けられている理由はきっとそこにある。)



では、乳がんは、当時の人にとって、どのように観察されていたのか?




周囲に浸潤して、固く引きつれる、かたまり。

それまで元気だった人の一部に、まるで取り付いたかのようにあらわれる、局所的な違和感。

浸潤するようすをカニの足に、固く引きつれるようすをカニの甲羅にたとえて、カニの悪魔もしくはカニの精霊のようなものが乳房に宿ったと考えたのだろう。

ギリシャ時代、がんには、カルキノスという名前が付けられた。ここから現代のcarcinoma(カルチノーマ)やcancer(キャンサー)という言葉が生まれている。いずれも、がんという意味と共に、カニという意味を含んでいる。十二星座占いのかに座はキャンサーと表記されている。雑誌で占いのページを見ている人や、聖闘士星矢に詳しい人は、ご存じだろう。




古くから認識されていた病気の「名称」には、さまざまな由来が隠れている。その由来にはしばしば、当時はよく観察されたが、現代ではいろいろな理由で観察できなくなった現象が含まれている。

医療というのは時代と共に、人々の努力と共に、移り変わっていく。

たとえば現代において、乳がんが、「まるでカニの悪魔かと見まがうほどに」成長することは比較的珍しくなった。理由はいろいろあるだろうが、乳がんという病気のことを国民が周知し、少しでも違和感があったら病院に行くようになったから、というのは無視できない理由だろう。

古い言葉が、文字通り「すたれていく」ところを見るのは、医療者と患者の願いでもある。




なお、医療用語のうち最も古いものはなんだろう、というのを考えていた。

「ケア」かな。ほかにもあるかもしれないけど、「ケア」は古いだろう。昔のことばで「心配」とか「悲しみ」、さらには「配慮」とか「お世話」を意味するとのことだ(ググりました)。ほんとかどうかは知らない。けれども、もしこれが本当だとしたら、ケアという言葉は、はるか昔から、ほとんど含意を変えていないのだな、ということがわかる。