病理とは病の理(やまいのことわり)と書くわけだ。
すると、「病理をやる人」と言った場合、ほんらいであれば
「病気を解明する人」
を意味しそうである。
しそうであるということはそうではないということだ。
実際には「病理をやる人」というと、病理診断という医療行為を担当する人のことを指している場合が多い。体の中からとってきたものをプレパラートにして、顕微鏡で観察して、細胞をみて、病気の正体に名前を付ける仕事。
というわけでぼくも普段はプレパラートをみたり、臓器を直接目で見たり、直接臓器はみられないけれどCTとかエコーとか内視鏡を介して見たりしている人と会話をしたりして給料をもらっている。
ただ、やはり、ときには、「病の理」について思いを巡らせたりもするのだ。
病気というのはなぜ起こる?
昔から人々はこのことにとても興味があった。
まあきっと、人々が一番最初に思ったのは苦痛が取れればいいとか、緩和できればいいとか、昔の健康だったころに戻りたいとか、そういう素直な感情だったろう。たぶん最初は「治したい」のほうが先に来たはずだ。けれども、病気を治すためにはどうやったって、病気そのもののことを良く知らないとお話にならなかった。「治すために知りたい」が生まれ、その後、「知りたい」がめきめきと具体的になっていったのではないかな。
敵を知り己を知れば百戦危うからず。
病理を知り生理を知れば百戦危うからず。
それでだ、病気の正体とか原因というのもさまざまである。
骨折みたいに「物理でこわれる」というのも立派に病気だ。こういうのは因果がわりとわかりやすかったから、昔から解析が進んだ。
いっぽうで「がん」みたいな病気はわりとわかりづらい。
そういう「わかりづらい病気」というのが目の前に残ると、病の理を研究しようと志す人たちは、やっきになって「わかりづらい病気」を解析した。
そしてある頃から、「どうも細胞というのは、DNAというプログラムがあって、そこから生み出されるタンパク質によっていろいろ機能を果たしているらしいぞ」ってことがわかり。
そこからすぐに「タンパク質に異常があれば病気にもなるのではないか」という発想が生まれたのである。
細胞を大工さんに例えよう。
この大工さんにひたすら「木材を切る仕事」を担当してもらいたい。
すると、木材を切るためのノコギリが必要だ。だからDNAは「ノコギリ」というタンパク質を作る。
こうして大工さんはノコギリを手に持つ。木が切れる。機能を果たす。
で、ある解析の結果、ノコギリというタンパクがカナヅチになってしまう異常を見つけた。
おかげで木が切れない。なんだかベコベコ殴ったりしている。
あっ、これが病気の原因だ! とわかる。
こうして、DNAやタンパク質の研究がめちゃくちゃに進み、さまざまな病気が発見(というか再定義)された。
けれどもあるとき、別の解析で、この大工はきちんとノコギリを与えられているのに、木を切らないという現象が見つかる。
DNAとタンパク質を解析しても、ノコギリはきちんとノコギリなのだ。
なのに病気になってしまっている。
これは難しい。原因がわかるようでわからない。
こういうタイプの病気ばかりが、「原因がわからない難病」として、今に伝えられている。
そしてあるとき、研究者たちは気づくのだ。
「ノコギリができてるかできてないかの話ばっかりしてたけどさあ、そのできたノコギリを、大工が、背中に背負ったままだったり、頭のうえでバランスをとってたりしてたらさ、木は切れないよなあ。」
そう、ノコギリがあるかないか、だけではなく、ノコギリが大工の手にきちんと握られているかどうかを解析しないとだめじゃん、ということに気づいた。
今までの解析手法では、大工とノコギリをとってきたら、それらをエクストラクト(横文字イエーイ)の中でとろかして、バラバラにして、解析していた。
けれどもバラバラにして成分だけ解析していると、これらの位置関係とか使われ方はわからない。
さまざまな苦労を経て、大工とノコギリをいっしょに解析する手法ができあがった。これでまた新しい病気が次々定義できる。
ところが今度は、大工がノコギリを持っているのに木を切らないという病気が見つかって……。
「おい、手には持ってるけど、こいつ、歯の方を持ってるぜ、みたいなことがあんのかなあ……」
研究者はまた考える……。
ノコギリが体の中では丸まってしまっている異常(取り出すと一見きちんとしたカタチにみえるから、今まで実験室では認識されていなかった)。
ノコギリに鞘がついたままの異常(取り出すと鞘がどっかに落ちて正常のノコギリにみえるから、今まで実験室では認識されていなかった)。
ノコギリを持った大工が4人集まるとお互いにおしくらまんじゅうをはじめて仕事をさぼってしまう異常(1人1人を取り出すと口をつぐむので、今まで実験室では認識されていなかった)。
病気の原因を探る研究の根幹にあるのはいつも推理の繰り返しだ。
推理といっても、安楽椅子探偵のようにずっとイスに座ったまま考えていれば解決できるタイプのものもあれば、ホームズのように仮説形成したあとで「現場百遍」して解決するかんじのものもある。
生命科学の基礎研究はどちらかというとホームズかな。
「病理」の理は、「推理」の理でもあるからな。
なおLANねぇちゃんがないと仕事にならない点からすると、ホームズってよりコナンかもしれない。