2019年4月19日金曜日

病理の話(316) 語り部のプライド

病理医の中には、「ストーリーを勝手に語っちゃう人」というのがいる。

たとえばこうだ。

「ここに癌細胞がいるんですけれどね。

正常の粘膜にまぎれて。ほら。いるでしょう。わかります?

癌細胞は、まず他の場所で発生して、いったん粘膜の下に潜ったんです。しみこんだ。

で、粘膜の下を這っていって、この場所で、再び粘膜に顔を出した。

昔、逆噴射、って言った人がいました。まさに下から上に噴き上げてますよねえ。」




……いかにも、がんの動きを見ていたかのように語っているが……。

実際にプレパラートで観察される像は、時間を止めた「静止画」である。写真で撮影したようなもの。

細胞がぐりぐりと「潜ったり」、「這ったり」、「噴き上げたり」する動きを観察できるわけではない。



かの病理医は、見たものを解釈して、ストーリーに仕立て上げて語っている。

そもそも癌細胞のことを「ある」ではなく「いる」と擬人化している時点で、がんに何か意志のようなものを感じ取ろうとしていることがわかる。





この、「そこに黙って存在しているものをみて、ストーリーを想像する」という思考は、考古学に似ている。

貝殻がいっぱい捨ててあったから、側に集落があって、人が海から食料を得ていたことがわかる、とか。

土器の中に種籾がはいっていたから、この時代には稲作が行われていたはずだ、とか。

これらはいかにも「ありそうなストーリー」として市民権を得るが、実際には、「ほかのストーリー」もあったはずだ。

同じ貝塚をみても、「貝からカルシウムを抽出して道具にしたのかもしれない!」と予測する人がいてもいい。

複数の仮説がある場合には、それぞれの仮説のどちらが「より、ありそうっぽいか」を探ることになる。

そもそも正解は確認できないのだ。大昔のことだから。

でも、ほかの資料を発掘することで、より確からしいストーリーを絞り込んでいくことはできる。

貝塚の側に、貝をまとめて熱する道具のようなものが出てきたら、「貝から何かを抽出したかもしれない」ことがより強く立証されるだろう。

でも、そういう道具がないならば、「貝は普通に食って捨てたんじゃね?」のほうが、より、「もっともだ」。





考古学がストーリーを考え出す学問という側面を持つように、病理組織学もまた、顕微鏡というマニアックな道具で、組織像という限られた情報から、「より適切なストーリー」を紡ぎ出すことが必要とされる。

そこに存在するがんは、どこからやってきて、どこへいくのか?

止め絵から流れを予想することで、たとえば……

「どこからやってきて」をつぶせば予防に役立つアイディアが出るし、

「どこへいくのか」を先回りすれば効果的な治療ができるかもしれない。





仮説形成法(アブダクション)という論理は、帰納法や演繹法に比べると、学術としては正確性が足りない、と思われがちだ。「そんなの、お前の妄想だろう」と言われる危険をいつも抱えている。

けれども、アブダクションこそは、医学をより奥深い科学に変貌させるアイディアを秘めた、学問が本来もつクリエイティビティそのものだ。




なお、AI(人工知能)も、アブダクションを途中まで進めることはできる(できないと考えている人もいるが、ぼくは、途中までならできると思う)。

けれども高レベルの仮説形成をAIが単独で行うことは、今のところ不可能だ、

人間にしかできない仕事というのは、けっきょくのところ、アブダクション=観察した事象にストーリーを与えて、学問を拡充しようとする行動

に、あるのではないかと考えている。