今日も今日とて本の話をする。
というか、本と自分の相性の話をする。
すっごい期待して買った本があんまりよくなかったということは今でもたまにあるのだけれど、先日、さらにその発展系といえるできごとがあった。
「昔、わくわくしながら買ったのに読んでおもしろくなくて、そのまま本棚にささっていた本」に目が留まった。あらためて読み直してみたら、なんと、おもしろかった。貴重な読書体験になってしまったのである。
昔のぼくが間違った判断をした、というわけではなくて、本を買った当時はまだ「その本を受け入れられるだけの素地が自分になかった」ということではなかろうか。
ぼくの場合、「すっごい期待して買った本」というのはたいてい、誰か名のある本読みが薦めていたので急いで手に入れた、というパターンが多い。
ところが、名のある本読みというのはたいていぼくより読書量が多い。本を相手にする間口も広いし、本を語る言葉の数も多い。すなわちぼくよりも、本の能力を引き出すことに長けている。元々の読書レベルが高いのだ。
今までのぼくは本を読んでつまらなかったらすぐに、「ぼくには合わなかったなあ」とあきらめてしまっていた。
でも、実際には、ぼくがきちんとレベルアップしていれば太刀打ちできるし楽しめる本、というのも、あったのだろう。
今まで手放してきた「期待外れに終わった本」の中には、今読むとまた違った感想を得られるものが混じっていただろう。きちんととっておけばよかった。惜しいことをした。
本がマスターソードでぼくがリンクだとすると、本を買ったときはまだハートの数が10個くらいしかなかったのだ。
今は昔より多少ハートの数が増えたから、抜いて使える剣の種類も豊富になった。
きっとそういうことなのだ。
あまり普段気にしてはいないが、本というのがマンガであっても、テレビドラマであっても、バラエティであっても、同じ事だ。
ある創作物を自分に取り込むためには、体験者自身が、自分の中に何か経験のようなものをきちんと蓄積していないと、創作物を十分に楽しめない。
このとき、創作物というのは、小説とかフィクションの類いには限らない。
エッセイだってそうだし、科学雑誌だってそうだろう。
創作物を味わうためには、文脈が必要だ。
自分の中に、何かを吸収するための文脈を構築するには、時間がかかる。
たとえば創作物が、世の大多数の人がなるべく理解しておかなければいけない事項だとしたら、文脈は義務教育の中で組み上げておかなければなるまい。
そして、学校という場では後回しにされてきた文脈を用いないと楽しめない、満喫できない、利用できない文脈、というものが、世の中には大量にある。
文脈を作る人というのが、結局、一番「つよくて、たのしんでいる」のではないかな、と思う。