2019年4月5日金曜日

病理の話(311) 普通はいつか不通にかわる

人間は誰もが「ふつうの暮らし」を定義している。

ふつうにメシ食って、ふつうに活動して、ふつうに笑って、ふつうに寝て。

で、この「ふつう」に、何か普段と異なるものが入ってくると、まずは怪しんで、いぶかしんで、拒否しようとする。

これは本能だ。

社会学的な本能。

集団生活の中に、異物が入ってくる場合、それが敵か味方かをきちんと判別しなければ、集団に危険が及ぶ。

敵だとしたら、排除しないと、自分たちがあぶない。

味方だとしたら、排除する必要はない……のだが、実は、異物が味方だったとして、それを排除しても短期的には大きな問題は起こらない。

だって、それまでの「ふつう」を変化させなければ、「ふつう」の暮らしは続けていけるのだから。

そう、基本、異物は「排除」で問題ない。



ところが、時間と共に、「ふつう」は変わっていくということに、注意が必要だ。

時間が経てば人々は年を取る。

活動量が変わる。

生殖に適した時期というのもある。

脳だってだんだん衰えていく。

時と共に、実は「ふつう」が変質する。



ぼくらがもし、「ふつう」を守るためには敵も味方も全排除すればいい、そうすれば「ふつう」は守れる、という錯覚をしていると……。

「ふつう」はいつしか壊れて、中期的・長期的には、「異物を排除したにも関わらず」、非日常へと変わってしまう。




実は、社会学的な本能は、単に入って来たモノを全排除せよというふうには作られていない。

「原則、やばそうなやつは排除するが、それが自分たちの『ふつう』を多少変化させても、ある程度秩序を保ちながら助力してくれる存在であれば、味方として受け入れる」

「人間は、社会のゆるやかな変質を受け入れ、『ふつう』が少しずつ移り変わっていくことを前提として、ある程度の変化に耐えられるだけの精神構造を持つ」

なんだかフクザツな言い方だが、ここまでが「社会学的本能」である。




そして実は、人間がもつ「生命科学的な本能」も、これと似ている。

たとえば、

「同じモノばかり食べていると飽きる」という現象があるだろう。

これは、

「少しずつ違うものを摂取することで、栄養学的な偏りをなくす。あるいは、それまでふつうに食べられていたある食べ物が変質してしまったときに、その食べ物に頼らなくても生きていけるようにする」

ことにつながる。

「ふつう」に対して、凝り固まった、一種類の考え方をあてはめ続けるのは、社会学的な側面だけではなく、生命科学的にも、リスクが大きい。

ぶっちゃけていえば、「ふつうは変わっていくものだ」と理解しておかないと、時間と共に生存の可能性が下がるのだ。





複雑系である人体を保つためには、数少ない食材、数少ない健康法にどっぷり依存しているとリスクが高い。

せいぜい数十年の経験、あるいは他人の経験もあわせて数百年分くらいの経験で、少ない食材や栄養食品に強く頼って生きていくと、「ふつう」が変質していくときに耐えられない。

むしろ自分の「ふつう」はどんどん変わっていくものだ、ということを、本能とともに、ありのまま、受け入れたほうがよいのではないか、と考える。