2019年1月10日木曜日

病理の話(282) 何度説明してもいい

このようなブログを書き続けているとあるときふっと気づくのだ。

書き手のほうは「順番に、あちこちを書いていく」のだけれども。

読み手がいつも記事を連続で頭から読んでいるわけではない。



何をあたりまえのことを……と思われるかもしれないが。



「病理のこと」とか、「病理医のこと」、「病理診断のこと」などというものは、世の中の99%の人がさほど興味もなく、触れ合うこともないニッチな話である。

だから、ブログで病理について何かを書くのならば、毎回、

 病理診断というのは、
 患者の体の中からとってきた臓器や、
 臓器の一部分……
 それは消しゴムのカスくらいの大きさかもしれない……
 とにかく、大きくても小さくても関係なしに、
 患者の体の中から何かをとってきたならば、
 必ず行われている作業です。
 患者から何かをとってきたら、
 それを「見まくる」必要があります。
 だって、体の中から何かをとってくるなんてのは、
 一大イベントですからね!
 とってすてておしまい、なんて、
 そんな、もったいない!
 十分に有効活用しなければいけません。
 じゃ、具体的に、何をみるかといいますと、
 とってきた理由にもよるのですが、
 「そこに含まれる病気の種類」であるとか、
 「そこに含まれる病気の度合い」などを、みます。
 どうやって「見まくる」かというと、
 顕微鏡でめちゃくちゃに拡大して細胞をそのまま見たり、
 科学の力で遺伝子とかDNAみたいなものを見たり、
 あるいは、ふつうに目でじっと見たりするんです。

なんてことを書くべきだ。

毎回、基本的なことを説明し続けていいのである。



お正月に箱根駅伝をみていると、「繰り上げスタート」であるとか、「たすきがつながらない」みたいなシステムがよくわからない。

だからググる。

そうか、2区と3区では、先頭のランナーから10分遅れてしまうと、もう次のランナーにはたすきをつなぐことはできないのか……。

でもこのことは毎年ググっている気がする。

去年も同じような解説ホームページをみた。

ぼくは駅伝の素人だから、何度説明されても、覚えられない。



病理の話だってきっとそうなのだ。

ほとんどの人にとっては、何度説明されても、

「どういうこと?」

「それが何の役に立つの?」

「なぜそれをしなければいけないの?」

みたいな疑問が常にある。



でも、同じことをずっと説明している医療者のほうは、一度説明したことを何度も説明すること自体に、抵抗感がある。

せっかくだから違うことを説明したいなあと思う。

毎回切り口を変えたいなあと思ってしまう。



すると「病理の話」に出てくる内容はだんだんマニアック化して、難しくなる。




世の「医療の説明」というのはすべてこれなのかもしれないなあ、と思うことがある。

外来で、患者に対し、毎日同じようなことを説明している医者は、だんだん説明がこなれてきて、そのかわり、だんだん初心者にはわかりづらくなってきたり、しているのだろうか……。




そして、たとえば、「どのように生きるか」「どのように死ぬか」みたいな話に対して、ぼくらがいつか「専門家のように」語れる日というのは本当に来るのだろうか。

もしかしたら、いつまでたってもぼくらは、「毎回ググる」以外の回答を持っていないのではなかろうか。

あるいは医療者はいつまでも、「ググって最初にたどり着くページのように」語ることを求められているのではないか……。