このようなブログを書き続けているとあるときふっと気づくのだ。
書き手のほうは「順番に、あちこちを書いていく」のだけれども。
読み手がいつも記事を連続で頭から読んでいるわけではない。
何をあたりまえのことを……と思われるかもしれないが。
「病理のこと」とか、「病理医のこと」、「病理診断のこと」などというものは、世の中の99%の人がさほど興味もなく、触れ合うこともないニッチな話である。
だから、ブログで病理について何かを書くのならば、毎回、
病理診断というのは、
患者の体の中からとってきた臓器や、
臓器の一部分……
それは消しゴムのカスくらいの大きさかもしれない……
とにかく、大きくても小さくても関係なしに、
患者の体の中から何かをとってきたならば、
必ず行われている作業です。
患者から何かをとってきたら、
それを「見まくる」必要があります。
だって、体の中から何かをとってくるなんてのは、
一大イベントですからね!
とってすてておしまい、なんて、
そんな、もったいない!
十分に有効活用しなければいけません。
じゃ、具体的に、何をみるかといいますと、
とってきた理由にもよるのですが、
「そこに含まれる病気の種類」であるとか、
「そこに含まれる病気の度合い」などを、みます。
どうやって「見まくる」かというと、
顕微鏡でめちゃくちゃに拡大して細胞をそのまま見たり、
科学の力で遺伝子とかDNAみたいなものを見たり、
あるいは、ふつうに目でじっと見たりするんです。
なんてことを書くべきだ。
毎回、基本的なことを説明し続けていいのである。
お正月に箱根駅伝をみていると、「繰り上げスタート」であるとか、「たすきがつながらない」みたいなシステムがよくわからない。
だからググる。
そうか、2区と3区では、先頭のランナーから10分遅れてしまうと、もう次のランナーにはたすきをつなぐことはできないのか……。
でもこのことは毎年ググっている気がする。
去年も同じような解説ホームページをみた。
ぼくは駅伝の素人だから、何度説明されても、覚えられない。
病理の話だってきっとそうなのだ。
ほとんどの人にとっては、何度説明されても、
「どういうこと?」
「それが何の役に立つの?」
「なぜそれをしなければいけないの?」
みたいな疑問が常にある。
でも、同じことをずっと説明している医療者のほうは、一度説明したことを何度も説明すること自体に、抵抗感がある。
せっかくだから違うことを説明したいなあと思う。
毎回切り口を変えたいなあと思ってしまう。
すると「病理の話」に出てくる内容はだんだんマニアック化して、難しくなる。
世の「医療の説明」というのはすべてこれなのかもしれないなあ、と思うことがある。
外来で、患者に対し、毎日同じようなことを説明している医者は、だんだん説明がこなれてきて、そのかわり、だんだん初心者にはわかりづらくなってきたり、しているのだろうか……。
そして、たとえば、「どのように生きるか」「どのように死ぬか」みたいな話に対して、ぼくらがいつか「専門家のように」語れる日というのは本当に来るのだろうか。
もしかしたら、いつまでたってもぼくらは、「毎回ググる」以外の回答を持っていないのではなかろうか。
あるいは医療者はいつまでも、「ググって最初にたどり着くページのように」語ることを求められているのではないか……。