「誰一人傷つけない日曜日よりの使者」は、「適当なウソをついてその場を切り抜け」たんだな。
などと、
歌詞をみながら考え込むときがある。
そういうときはたいてい、ぐったりしている。
疲労で。
「疲労」と「披露」と「ヒーロー」がいずれも似通っているというのは、すごい、それはすばらしいことだ、かもしれませんね。
いい大人が疲れる理由として、
「誰かのために、何かを披露して、ヒーローを気取って、疲れる」
というのはわりと望ましいほうの結果だと思う。
自分が疲れたりイヤなことがあったりしたときに、それを文章化する行為には、多少なりとも御利益があるかもしれない。うまく自分を客観視できたり俯瞰できたりするからね。
でも、文章と自分の立ち位置が「ライバル」だったり「好敵手(とも)」だったりするようなタイプの人間……たとえばぼく……にとっては、疲れた記憶やささくれたときの話、皮肉、揶揄などを文章にしてしまうと、感情が増幅されてディストーションがギュワンギュワンかかり、客観視どころではない。
たぶんあまり俯瞰しないほうがいい。御利益より呪いの方が強いだろう。
だったら、感情を文章にしなければ全てよいかというと、今度は、
「口には出さないまでも周囲の人に不機嫌をばらまいた」
とか
「いかにもな表情で周りの人々に気を遣わせた」
ということがおこる。
抱え込めばよいというものでもない。
中間を攻めよう。
文章にするだけして、自分で読み返してハッとして、おしまいにするというのはどうだろう。
公開しない文章を書くのだ。
公開しない文章をきちんと書き続ける行為には、こうしてブログなどをへらへら公開し続ける行為よりもちょっとだけ複雑なアレコレが潜んでいるように思う。
「ここではあなたのお国より、人生がもうちょっと複雑なの。恋だったらいつでもできるけど!」
「誰一人傷つけない日曜日よりの使者」は、適当なウソをついてその場を切り抜けた。思うこと、考える事を、自らの中で文章化し、概念として組み立てたあと、「その場」にどこまで出すか、考えて、ひっこめた。
切り抜けられればよい。誰も傷つけないことが一番よい。
たぶんそういうことなのだ。