2019年1月30日水曜日

脳だけが旅をする

ぼくはもともとツイッターをはじめたときに「病理広報」をやろうと思っていた。

本気で病理学とか病理診断とか病理医について、世の中に説明しようという気概をもってアカウントを作った。

これは本気だったから、現在のアカウントを作る3か月くらい前に、個人アカウントを作り、ツイッターとはどういうところなのかをまじめに勉強した。

まず、フォロワーが多く、世の中に影響力があるアカウントを積極的に探してフォローした。

その中にはNHK_PRや東急ハンズ・ハンズネット、ヴィレッジヴァンガード、ムラサキスポーツなど、いわゆる「大手のアカウント」が含まれていた。

また、OKwaveとか鳥取県のネギのゆるキャラなど、ネット外ではほとんど知名度がないがツイッター内では有名になりつつあった巨大アカウントもいた。

個人的に追いかけたかった書籍出版社や書店も忘れずに。

そして、「地方の中小企業なのにフォロワーに愛されているアカウント」などもチェックした。

ぼくは自分がこれから広報したい「病理医」という存在が、いかにもマイナーで、マニアックで、知名度がとても低いことをよくわかっていたので、元々の母体が有名だからフォロワーがいっぱいいるアカウントと、SNSではじめて有名になったような本来マイナーだったアカウントの両方を見て、考えることにした。

芸能人や芸人のアカウントはあまり見に行かなかった。

歌手とかタレントがツイッターでやっていることは、あまり広報っぽくないな、と、そのときは思っていたからだ。




3か月ほど過ぎて、アカウント名も決まった。

ちなみに病理医ヤンデルという名前は公募とアンケートで決めた。病理の病+マイケル・サンデル教授からの合作。候補の中には「病理少女まくろ☆ミクロ」などがあった。それにしてなくてよかった。

さあ病理広報アカウントをはじめるぞ、というタイミングで、東日本大震災が起こった。

ぼくは2011年の3月15日をアカウント開設予定日と定めて準備していた。

でも地震によってそれどころではなくなった。

知り合いも被災したし、気分的にも、社会的にも、今新しいアカウントを作るなんてことはありえなかった。

そして、それ以上に、今でも思い出すことがある。

それは、地震を境に、あらゆる「企業広報アカウント」が、いっせいに、自分たちのありようを急速に模索し直したということだ。

さらに、個人的に追いかけていた糸井重里氏からのつながりで、震災関連の情報をじっくりと、かしこく、考えながらやりくりして提供していく人たちが目に入るようになった。

ぼくは、単なる「広告」ではなく、かといって「過剰にパブリック」でもない、「とても安心できる年上の友人」のような存在を、企業広報や、一部の学者などの中に感じ取った。




ぼくは震災後の1か月に様々な経験をしたし、それを全てここに書くつもりはないが、ツイッターという世界についてもかなりいろいろなことを学んだ。

ぼくはアカウントの開設日を4月11日に定めた。

まだ、具体的に、自分がどうなりたいかはわからなかった。とりあえず目の前には無数の人々がいて、さまざまな立ち位置で、いろいろなことを言っていた。

けれど、なんとなく、少しずつ、「ああいう感じがいいな」という目標だけは、おぼろげに浮かんだ。

アイコンの色を青緑に設定したのは、ぼくが当時もっとも追いかけていた人たちと「色がかぶらない」のが青緑だったからだ。

タイムラインに流れてくる回数の少ない色でもあったし、ぼくが規模はともかく、心情的には、この人達と並び称されるようにがんばろう、という決意もあった。





まず最初の目標は「フォロワー2000人」。

それくらいのフォロワー数で、フォローも2000くらいして、相互フォロワーと楽しく毎日会話しているような中小企業のアカウントが楽しそうに見えた。

それに2000という数字には副次的な意味もあった。

当時の病理専門医の人数がだいたい2000名くらいだった(今では2400名くらいになっている)。

できれば、病理医の数くらいは人を集めたいな、と思った。




その後ぼくは少しずつフォロワーを集めていくのだが、病理医という名乗りはあまりにマニアックだったためか、ツイッターのようなマニア御用達の場所ではフォロワーが増えやすく、フォロワー数はすぐに2000を超えてしまった。目標が達成できてうれしかった。そして、さあ、どんどん広報をするぞ、とぼくは燃えた。

ツイッターをはじめてから2,3年くらい経ったころ、マンガ「フラジャイル」の第1話がアフタヌーンに掲載された。

フォロワーからそれを教えてもらい、ぼくはアフタヌーンを買って、読んだ。今でもはっきりと覚えているのだが、ぼくは瞬間的にこう思った。

「ああ、このマンガがあるなら、ぼくは、もう広報なんて身の丈に合わないことはやめよう」。

フラジャイルはすごく出来が良かった。後々テレビドラマにもなるが、ぼくはマンガが掲載され始めたころから、「フラジャイルによって病理医を知る人のほうが、ぼくがちまちまツイッターで広報するよりも圧倒的に多いだろう」と思い、これをきっかけとして、「広報アカウント」を名乗るのをやめようと思った。

個人でやることには限界があった。それはもう、はっきりとわかっていた。

広く周知すること。

正しく伝えること。

これらを大目標に、なんとなく「広報的なこと」をやってきた。

でも、もう、自分で情報発信するというのがどういうことなのか、ぼくが持つ可能性と限界みたいなものはなんとなくわかりかけていた。

フラジャイルが連載される少し前、「中の人などいない」が発売され、それを読んで以来、ぼくは「ツイッターは発信よりも受信に向いているツール」であり、「広告よりもコミュニケーションに向いているツール」という考え方を得た。これも大きかった。

ぼくは、病理広報アカウントという(勝手に名乗っていた)看板を下ろした。




なぜかフォロワーの伸びは前よりも早くなった。

しかし、フォロワーが増えるといっても、芸能人やスポーツ選手のフォロワー数には遠く及ばないし、RT数だってそんなに稼げるわけでもない。

どちらかというとフォロワーが増えることよりも、フォローする世界が広がっていくほうが、ツイッターは楽しいのかもな、なんてことを考えた。RT(リツイート)という作業は拡散ではなく濃縮なのだな、ということも考えた。広報という手前勝手な看板を下ろしてから、ぼくはツイッターが好きになった。




これがだいたい2015年頃までの話。ちょっと昔になってしまった。

どの時期も、ぼくにとって順番に必要だったのだろうな、ということはわかる。

そして、これらの段階が全ての人に当てはまることでもない。それもわかる。

誰のために書く文章でもなく、これはぼくのための、日記みたいな文章だ。

昔の旅行を振り返っているような気持ちになる。