「尊敬しており、会いたい人」と、
「尊敬しており、会いたくない人」だ。
先に会いたくない方の説明をすると、なんというか、うーん、相手の澄み切った人格に自分という色を一滴垂らしただけでも濁ってしまうのではないかと心配になるかんじ。
いわゆる「尊すぎて会えない」というやつ。
あとは、実際に会話してみて、話がかみ合わなかったら、もう恥ずかしくて応援できない、みたいな不安もある。
ツイッターでは知り合いだけど実際に会ったことがない人と、いざ会ってみたら、リプライでのイメージを崩してしまいそうで、今後ネットでも絡めなくなりそうで、楽しい時間がなくなってしまいそうで、ごめんなさい、もうしゃべれません、みたいなことがある。
こちらは「脆すぎて会えない」みたいな気分。
これらの気分についてはけっこう共感を得られるんじゃないかとわかって書いている。よく聞くもんね。
でも、今日の本題はここからだ。
ぼくにとっての、「尊敬しており、会いたい人」というのはどういうタイプなのかなあ、というのを、先日少し考えていた。
どうしてだろうな~、尊敬してて会えない人と会える人の差って何かな~、と、自分の無意識に潜む何かを知りたくなり、ちょっと思索を深めてみた。
そしたら後悔した。
自分の心を丁寧に掘り進めていったら、どうもあまりほめられたものではない理由が出てきたからだ。
いろんな角度から自問してみたんだけど、おそらく間違いない。
ぼくが「尊敬してるし、積極的に会いたい人」というのは、こういう相手だ。
「尊敬してはいるが、その人よりも自分の方が別ジャンルで何か得意なものをもっている」ケース。
あるいは、「自分がその人に自信持ってしゃべれる引き出しがあるとわかっている人」。
こういう相手に対して、ぼくは「尊敬しているし、会いたいな~」みたいなことを口にしている。
具体的にはたとえば、他科の医師ですごい偉い人などが「尊敬しているし、会いたい人」に該当する。
内視鏡の世界で偉いとか、外科の世界で偉いとか。
そういう人がどれだけ華々しい業績があっても、ぼくには病理という武器があるから、なんとか対等な会話ができるもんね、みたいな。
この内面には気づきたくなかった。
何気なくあっさり心象探るだけにしておけばよかったな~。
「尊敬してます」っていいながらマウントとれる相手だと、気軽に会えるってことだもんな~~~。そんな居丈高な自分がいるんだな~~~~~~~~。
ああ~やだ。ぼくは恥ずかしい気分でいっぱいになってしまった。
そんな気づきからしばらく後、ぼくはSNSのイベントに出た。楽しいイベントだった。一度や二度お会いしたことがあるビッグネームも来ている。はじめてお会いする方も多かった。
なんとなく全員に会うのが気恥ずかしかった。
ぼくはいつも心の奥底に、「こっそりマウントをとれるかどうか」という基準を設けて会話してるんじゃないかな、みたいな疑いが晴れないまま、イベントは始まった。
尊敬する浅生鴨と尊敬するシャープと尊敬する犬がしゃべっていた。
周りにも尊敬するアカウントがいっぱいいた。
その日は結局、そのうちの2名と、深夜まで飲んだ。
いずれも、もしかすると、初対面のときには、ぼくの心の中にマウント合戦みたいなものがあったのではないか、という記憶がちらちらと思い出された。
気恥ずかしさ、申し訳なさが交錯する中、しかし会話の内容自体がおもしろかったため、ぼくは罪悪感のようなものを破裂させずに、心の床板の下に押し込めておくことができた。
飲み会が終わってふわふわホテルに戻り、歯磨きをして、寝る前に思った。
ぼくが最近、「言祝ぎ(ことほぎ)」にこだわるツイートをしているのは、自分の発言のあちこちに、気づかないうちにマウント合戦みたいな雰囲気がにじむことを、無意識にわかっていて、そういう自分がいやになって、人より自分が優れているところを探すような生き方をなるべくやめるために、他人のよさを人前で語ることに「特化」しようとしていたのではないか。
ベッドに潜ってまぶたを閉じる。もう夜は遅い。意識が飛ぶまで5秒もないだろう。その、残り4秒くらいで、以上のことを考えて、最後の1秒に、付け加えた。
「まあそれでもいいか」。
そして あさが きた!