2019年1月2日水曜日

病理の話(279) 健康の定義の今昔

本年もよろしくお願いいたします。




ぼくの住む札幌市には1日に何件くらいの万引きがあるのだろう。

どれくらい痴漢がいて、何カ所で信号無視がされ、どこで恐喝がはたらかれているのだろう。

あちこちで小さな事件が起こっている。

たとえば、朝起きてNHK北海道のニュースなどを見ていると、

「ああー今日は札幌市内でコンビニ強盗未遂が1件とボヤが1件あったんだな」

なんてことがわかる。

けれどもニュースにならなくても、自動車絡みのトラブルはきっともっと多いだろうし、万引きとか痴漢についてももう少し発生しているはずだ。

SNSを見ていると、「ぼくがテレビを付けていなかった時間に報道されたニュース」が頻繁に飛び込んでくるし、「そもそも報道されていない小さな事件」みたいなものも見えてくる。

なんだか昔に比べて、「ぶっそうになったように感じる」。

事件の発生件数が実際に増えたかどうかは警察とか消防に聞いてみないとわからないのだけれど。




人体に対する観測でも、同じようなことが言える。

昔は、見た目がピンピンしていれば「健康」と言っていた。

けれど、今は、「どこも具合悪くないけれど血液検査で血糖が高いと言われた」みたいなケースがある。

血糖が高いというのは、「血糖を気楽に測定できる時代」になったからこそ発見できるようになった異常だ。

おそらくは昔も血糖が高かった人はいたのだろう。

けれども現代のほうが、血糖の異常については発見されやすい。




人体のあれこれを可視化する手段が増えるにつれて、「自分では気づけない、観測できないけれど、実は病気」みたいな状態が増えた。

「時代が進んでぶっそうになった」というのと少し似ているような気がする。




もっとも、「血液検査のデータがちょっと悪いくらいで病気だと大騒ぎする必要がない」という話もある。

SNSで出てくる小さなトラブルがすべて事件性あるものとは限らない。

「異常があるかないか」と「病気かどうか」というのも別である。




測定手段が上達すると、健康の定義がずれていく。

このことを、ぼくら医療者はけっこうよく気にする。

たとえば人間の遺伝子をすべて検査できるようになると、あちこちに「遺伝子変異」が見つかる。その数はけっこうな数で、10とか100というオーダーではない。

けれども多くの人間は、遺伝子変異を抱えたまま、なんともなく毎日を送っている。

もしかするとその変異のひとつは、将来大きな病気の原因となるかもしれないのだが……。

どうも観測を深めれば深めるほど、「そういうものでもないらしい」という考え方が身についてくる。




健康も疾病もほんとうのところは「社会的な文脈の中で浮かび上がってくるもの」だ。

ぼくらは、自身や人々が健康であるか否かを、いつも結構な量の知識と知恵を駆使して定義していかなければいけない。

病理医が細胞を診て「がん」だと言ったら、それは「がん」である。ぼくらがやっているのはそういう仕事だ。

けれども、その「がん」が治療の必要があるかどうか、放っておくと生命に関わるのか、どれくらいその人の人生に悪影響を及ぼすものなのか、については、病理医だけで決めきれるものではない。

そういうことをわかった上で、なお、「細胞を見てがんかがんじゃないかを判断します」と宣言する。

それが病理医というものなのだ。立ち位置を知り、覚悟をする必要がある。