読書というありふれた行動を「趣味」と呼ぶ事に、元来抵抗があった。
「文学青年」みたいな言葉とセットで語られたり、きゃしゃなメガネ姿のイメージと抱き合わせにされたり、ほかに楽しい事を知らない人みたいなニュアンスを勝手に感じ取ったりしていた。
本を好きだということは、地味だと思う。
「シングルモルトウイスキーを少しずつ飲んでいくのが楽しいですね」
「旅先でくだらない細々としたおみやげを集めるのにハマっています」
「カメラは沼ですよ。ひとつ撮れるようになると次を撮りたくなる」
「知名度は少ないのですが熱烈な愛好家が多いカードゲームです」
これらの売り文句と比べて、「趣味は読書です」というのはいかにも弱い。
「本だけのため」に時間を使うのがもったいないような気がした。
スポーツの魅力の前には本はいかにも無力だった。
ぼくはそこまで運動神経はよくないけれど、幸いというか、不幸にしてというか、長年剣道をやっていたし、剣道に生涯打ち込むほうがまだ「趣味の一貫性」が見えてくるような気がしていた。
けれどこの年になって、本は趣味として「残った」。
そのことを先日しみじみと感じた。
今になっても、ぼくが一番時間を割いている対象は本ではない。
中年の日常には細々とやることがある。本を商売にしているならばまだしも、ぼくはとにかく病気のことや医療のことを仕事で考えていかなければいけない。それがライフワークだしライスワークでもあるからだ。
自分のメンテナンスにも苦労する。飯を食うこと、髪を切ること、年齢や季節に合わせた服を買うこと、ポンコツな車を直すこと。
目の前に順番に並んでいる「客」をさばいているのに精一杯で、本に向き合う時間なんてほんのちょっとしかない。
けれども、お酒に愛情を注ぐ時間も、旅に出る時間も、ゲームをする時間も、映画を見たり音楽を聴いたりする時間も、スポーツをやったり見たりする時間も、すべてちょっとずつしかない。
つまり年を取るというのはそういうことなのだ。「没頭」の仕方が変わる。
寝食を忘れてのめり込むことができるのは若いうちだけだ。
寝食をこなしたあとにちょろっとよっかかるのが中年というものだ。
気づけばぼくがよっかかれるものは、本だけになっていた。
おじさんが他のなにかにもたれかかるといろいろ迷惑がかかる。
加齢臭で迷惑をかけるかもしれない。パワハラにあたるかもしれない。セクハラも気にかかる。イチハラはそこでしっかり立っていてください。
そんな状況でなお、誰にも迷惑をかけず、こっそりと体重を預ける相手が本であり、それはおそらく一日の中で何分とかせいぜい2時間までのことなのだけれども、ぼくは今、その時間を、感謝をもって、「趣味」と呼ぶようになった。
なかなか味があり趣のある展開ではある。