2019年1月3日木曜日

実はないんですよ

今まさに猛然と師走の仕事を進めているところで、年始のぽやーんとした空気の中で読むような文章を書ける自信がない。心がざわめいている。キーボードに置いた手が落ち着かない。

高尚な題材を練るのはあきらめて、ささっと書き流そう。

今日は、ブログを書くことを単なる「こなすべきタスク」ととらえている日だ。

……そういう日がたまにある。




「そういう日」に書いた文章は、あとで読み返すと、わかる。

きっと読者の中にも気づく人間はいるだろう。

「あ、流したんだな」。

ばれている。

それがちょっと、恥ずかしい。

いやだいぶ恥ずかしい。



とりあえずささっと書いた、という文章は、見ていると雰囲気でだいたいわかる。人の文章も、自分の文章もだ。

忙しいから仕方がない。

いつもいつも高尚なことを考えているわけではない。

ネタの鉱脈を毎日掘っている人間ばかりではない。

お金をとって読んでもらう本ならまだしも、無償でやってるブログなんだから、たまにはそういう「書き殴り」がまじってもしょうがない。

だいいち書いているのはプロのライターじゃなくて素人なんだ……。

さまざまな言い訳を思い付き、脳内でフォローに入る。実際に口に出して言ったことがあるかもしれない。人に対しても、自分に対しても。




言い訳をしたところで、恥ずかしさは消えない。

理屈というより情念の問題だ。

ネタがないなら書かなければいい、それはわかっている。

けれども。

「毎日更新」を掲げているからと、あるいは読んでいる人がいるからと、なにやら使命があるからと、出ない文章をひねり出そうとする。

こういう「モード」を経験するようになって20年が経つ。

最初に買った「ホームページビルダー」のヴァージョンはいくつだったろうか。

ぼくは何も成長していない。





「人間としての弱さを出してくるタイプの作家」というのがたまにいる。

「書けない、書けない」と悩んで愚痴っている物書きを見かける。

けれども、ぼくとはどうも悩みの次元が違うようにも思える。

だって、彼らは、いざ何かを書き始めるとめちゃくちゃにいいものを書くからだ。

「書けない書けない」とか言いながら、そのうちに、いつのまにか、すごいものを書いている。

たぶん、「書けない」のレベルがぼくなんかとは違うのだ。

例え話だが、ぼくが彼らの脳内にいっとき寄生して、アイディアを全部掘り出してみたら、きっと「なあんだ、いくらでも書けるじゃないか!」と思えるほどのネタの宝庫が発掘されるのではないかと思う。

それでも彼らは「書けない」のだ。だって、彼らのレベルは、「その程度のネタ」で書くことをよしとしていないから。

世間に求められているレベルが高いから、そのレベルに応じた作品ができあがるまでの間、「書けない」と苦しんでいるプロの物書きたち。

彼らの懊悩と、ぼくの「ブログのネタ思い付かねぇなあ」とを同列に並べてはいけないのではないか、と思う。





「そんな簡単なことで悩んでいたのかあ。」などと笑うひとは、物事の難しさに気づいていないだけだったりする。

「どう考えてもこっちが正解だよね。」などとイキるひとは、あまりよく考えていなかったりする。

「なぜそんなことをするのか、全くわからない。」と眉をひそめるひとは、他の物事について、何か「わかったこと」があるのだろうか。

「書けない」と気軽に言いながら、今日こうしてしれっとブログの記事を一本完成させたぼくは、実はまだ「書いたことがない」可能性がある。

「書けない、書けないと言いながらも書けたよ」なんて言いながら、本当はまだ書けていないかもしれない。

ぼくは今までブログを書いたことがあるのだろうか?

ぼくは今まで、文章を書いたことがあるのだろうか?