2019年5月15日水曜日

病理の話(322) 趣味や愛と一緒にされてもなあと怒られそうな話

自分が学生だったときもずっと考えていたし、自分が先輩になってからは後輩とその話題で盛り上がったりもした、いわゆる鉄板ネタというのがこの業界にはあって、それは何かというと、

「自分に向いているスキルは何か」

「自分が進むべき科はどこか」

「自分は何科の医者向きなのか」

というトークである。





医者といってもさまざまな仕事がある。

ぼくは医療者の仕事をおおきく3つにわけた。「診断」「治療」「維持」。医療の世界で働く人間は、このどれか、あるいは複数の性質をもつ仕事を日々行っている。

たとえば、循環器外科という場所で仕事をしている医者のもとには、「心臓の血管が詰まって明日には死んでしまうかもしれない患者」がやってくる。文字通り明日をも知れない命の人々だ。彼らに手術をほどこして、ケロリとなおすのが仕事である。

”救急車でやってきた患者が歩いて帰っていく。”

この「治療」に生きがいを見いだす人がいる。

ただ、医療者の仕事というのは必ずしも「治療」だけでは終わらない。

たとえば、ドラマ「ラジエーションハウス」に出てくる放射線技師たちのように、病気がどこに、どのような規模で存在するのかを見極めて、ほかの医療者達がこれからどう対処したらいいかの指針を打ち立てる「画像診断」という仕事。

彼らは人を治さないから医療者ではない、とは全く思わない。ただ仕事のスタイルは違う。地下鉄の運転手と路線図を書く人くらい違う。どちらがより医療っぽいか、という評価をくだすこともナンセンスだ。

さらには「維持」。これがかなり大事で、かつ、忘れられている。

たとえば開業医のもとに患者がやってきて、「いつもと同じ薬をくれ」という。血圧の薬でも、血糖を下げる薬でもいい。

このとき患者の「診断」はおおむねついている。高血圧ぎみだとか、糖尿病ぎみだとか。

「治療」方針もほとんど変わらない。前と同じ薬を出せばいいのだ。

では、「前と同じ薬を出すだけのこと」に、わざわざ医者が立ち会わなければいけないのは、なぜだろう?

日本の医療制度が、「機械から薬をもらっておしまい」にならないのは、なぜだろう?

そう考えてみる。

月に1度くらいのペースで、患者が医者のもとに通い、日々なにか変わったことはなかったか、最近気になることはないか、と会話をする。

会話にひそんだヒントを医者は探して、そこに、なんらかの「変調」を感じる。

どうも今の薬の効きが悪くなっている、みたいなこと。

あるいは、今かかっている病気とはまったく別に、違う病気が育っているかもしれない、ということ。

一病をもとにして、医者と関わりを持ち続けながら日々を過ごしていると、医者は患者の新たな変化に気づけるかもしれない。

患者が「維持」している日常生活に、それまでの暮らしを維持することが困難になるなにかが忍び寄っていないかどうかを、丹念に探っていく仕事。

この「維持管理」というのが、医療においては診断や治療と同じくらい……あるいはそれ以上に……大切だ。なお、看護師や介護士は維持管理のプロフェッショナルである(その点においては医者より詳しい)。






……さて、医療には「診断」「治療」「維持」という3つの側面があり、医学生や若い医者たちは、「このどれに自分は向いているだろうか」と考えるとよい……みたいなことを、ぼくは今まであちこちで語ってきた。

ただ、この、「向き・不向き」について、最近ちょっと思い直したことがある。

タイムラインを流れるツイートを見ていてふと思ったのだ。

学生の段階で、自分が向いている仕事、不向きなスキルなどを見極めることは本当に可能なのだろうか……と。




なんとなく、なんだけど、少なくとも医療業界における向き・不向きというのは、生まれた時に決まっている(生まれ持った)指向などではなくて、医療界で暮らしていくうちに

”育まれていく”

ものなのではないかな、という気がしてきたのだ。





卑近な話をする。ぼくは立場上、よく聞かれる質問がある。それはこうだ。

「どういう人が病理医に向いているんでしょうか?」

向き・不向きである。これに対してはぼくは近頃こう答えることにしている。

「20代のぼくは向いていなかったけど40代のぼくはめちゃくちゃ向いているんですよ。これって、病理医としてストレスなくやっていくスキルがぼくのなかで育まれたからだと思うんですよね。15年もやればね、そりゃね、誰でもきっとそうなります」

すると尋ねた側はキョトンとして、ときにはこういう。

「いや、じゃ、聞き方を変えます、15年スキルを育めるほど、病理にのめりこむことができるのはどういう人ですか?」

ぼくは少し考えてこう答える。

「正直、15年間ずっと病理に集中していたわけじゃないです。そもそも最初の数年はぼくは学者になりたかった。紆余曲折して、回り道をして、病理診断以外の方向にさんざん浮気してますけれど、それでもなんか育まれるんですよ」

すかさず尋ねた側は怒り出す。

「答えになってませんよ。それは結局、あなたが病理にたまたま向いていた、ってことでしょう」

ぼくはデンプシーロールの体勢に入る。

「向いていたか向いていなかったか、じゃなくて、時間をかけてそっちを向いたんだよ」

尋ねた側はデンプシーロールの弱点であるカウンターを放つ。

「でも時間をかけているうちに折れるかもしれないじゃないか」

ぼくは体に無理をかけるステップワークでデンプシーロールを進化させる。

「折れそうになったら逃げて戻ってきたってまだ余裕で人生は続くんだよ」

尋ねた側はフットワークでデンプシーロールを逆に追い詰める。

「人生の終盤のことなんかどうでもいいんだよ、俺は20代・30代で悔いの残らない選択をしたいっつってんだよ」

ぼくは追い詰められても結局デンプシーロールにこだわることにする。

「自分では能動的に選択していると信じて積み上げて、それがいつか『なんか気づいたらそこにいるな、俺』ってなるのが中年なんだよ。仕事の向き不向きなんて全部こうだよ」

カウンターが炸裂する。

「全部とか絶対って書いてある選択肢は間違いだって国家試験対策委員が言ってました」

ぼくはマットに横たわる。

「おっしゃるとおりです」