2019年5月7日火曜日

病理の話(319) 顕微鏡だけでわからないこと

細胞をプレパラートで見るとかなりいろいろわかるんだけど、もちろんわからないこともいっぱいある。

有名なところでは、「血の巡り」がわからない。

体の中からつまんできた組織片(そしきへん)をプレパラートにする段階で、その部分の血の巡りは当たり前だけれど止まってしまう。

血管は見えるよ。小さい奴だってわかる。

けれども血流は見えない。当たり前だけれどこれはけっこうおおきな「ハンデ」なのだ。




たとえば「がん」という病気は、体の中に機能のおかしな細胞が異常に増えてしまう病気だ。つまり本質は「ヘンな細胞が異常に増えること」にある。

この、「ヘンな細胞」も、通常の細胞と同じように酸素を必要とする。あるいは栄養だってほしがる。だから、がん細胞にも、普通の細胞と同じ……いや、それ以上に、血液が巡ってくる。

がんはずる賢いやつで、正常の血管網をいじって、血管を勝手に自分の方にひっぱってきて、血液をちょろまかすようなことをする。

このことを利用して、造影検査というのをやれば、「がんのところにだけ、周りと違うかんじで血流が流れ込んでいること」がわかる。病気の発見や、広がっている範囲を決めるときに、役に立つ。

これだけ大事な血流情報を、病理のプレパラートでは見ることができない。

「異常な血管が引っ張られている像」だけはかろうじてわかることがある。

市街地の電信柱から、学校のグラウンドに向けて、大量の電線が伸びていれば、「おいおい……何をするつもりだ?」と思うだろう?

病理医も同じようなことを感じることができる。

けれども、実際に流れている血流そのものをみることができないので、ちょっともどかしい。





病理医が直接みることができないのは、血の巡りだけではない。

たとえば、腸に、「炎症」が起こっているとする。体内の警察部隊である、白血球が、大腸粘膜のあちこちに出現している状態だ。

白血球がいっぱい出ていることは、プレパラートですぐにわかる。なにせ、白血球そのものは、顕微鏡でみえるからね。

ところが、この白血球が「なぜ」そこにあるのかは、見えないことのほうが多い。

つまりは「炎症があること」はわかるのだけれど、「炎症の原因」がわからないということだ。




炎症の原因がわからない理由はいろいろである。たとえば病原菌が原因である場合。単純に、病原菌が小さすぎて、プレパラートではよくわからない。というか菌自体はみえるのだが、大腸にはもともと「大腸菌」などの常在菌がいっぱいいるので、そこに「悪い菌」が混じっているかどうかがわかりにくいのだ。

直接の「下手人」を見極められないのに、炎症の原因を探らなければいけない。

だったら、どうすればいいか。




粘膜の表面付近で炎症が強ければ、感染症かもしれない。

粘膜の深部(表面から少し離れた場所)で炎症が強いならば、外からやってくる敵(感染症)ではなく、内なる敵(自己免疫など)に問題があるのかもしれない。

炎症はそれほど強くないんだけれど、なぜか粘膜が弱っているならば、それは特殊な栄養不足(たとえば虚血)かもしれない。

犯人そのものが見えないならば。

警察官の動き方、どこを重点的に捜査しているか、あるいは犯人がすでに壊した器物の解析……。

そうやって推理を進めていくことになる。




病理は推理、という話を最近よく書く。

推理。論理。わりと審理もする。そして、実は「心理」も用いるように思う。若干こじつけだが、こう、なんというか、「病気ってこういう気分で体に害を及ぼしていそうだよな~」みたいな、心理あてクイズ的な要素もある。直接目に見えないものを探るというのはそういうことだ。

そうやって必死で真理に迫っていくのだ。