話し相手、さらには文章を読んでくれる相手の「脳内の負荷」をいかに減らすか、みたいなことを最近よく考えている。
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ぼくの「オリジナルの思考」をなるべくそのまま、ぼくがやりたいように外に出すと、上のような文章になる。
ここにぼくのクセがけっこう含まれている。
ぼくの文章のクセは、「ぼくが見たモノ」と「考えたコト」をブレンドしたまま、文章の前方に配置する、というものだ。
ぼくが一番興味のあること、言いたいことから順番に表示される。本来のぼくの脳はこういう文章を好んでいる。
けれども時間が経つと……。
どんなことを考えていたのかを忘れて、ぼくの思考がぼくのものでなくなったタイミングでこの文章を読むと……。
皆さんと同じ条件で、他人の目線で、自分の文章を読むと……。
あっわかりにくいなー、と思う。
脳のメモリをだいぶカリカリと消費しながら必死で読まなければいけなくなる。
ぼくは、「オリジナルの思考を垂れ流しただけの文章」を書いた後に、文章の構成をいじったほうがいいな、と思った。
先ほどの文章を再掲しよう。
「話し相手、さらには文章を読んでくれる相手の『脳内の負荷』をいかに減らすか、みたいなことを最近よく考えている。」
これを、書き換えよう。
「最近、気にしていることを書く。ぼくの話し方や文章の作り方は、聞き手や読み手にとって『負荷』がかかっているのではないか、これを減らしたいなというのが目下の懸念事項だ。」
「なんかちょっと優しいしゃべり方をしたい。なんだかもっとわかりやすい書き方をしたい。聞き手や読み手ができるだけ負荷なく、ぼくの思考を手に入れられるような発信方法はないものか。いつも模索している。」
「文章術」みたいなものが気になった。だから、名著と呼ばれる本も多く読んだ。
ちかごろ一番おもしろかったのは、ファクトフルネスを翻訳した上杉さんのメソッドである。「いちから文章を作る人ではない、翻訳家である、上杉さん」のことが気になったのは、「原文があってそれを違う言葉に翻訳していく」という作業が、「脳内にオリジナルがあってその原義をなるべく崩さずに文章にしていく」というぼくが目指している作業に似ているように思ったからだ。
その上であえていうのだが、ぼくはもう、自分の文章の構成をいじるのはやめとこうかなーと思い始めている。
ぼくは、やっぱり、「見たことと考えたことがブレンドされて飛んでくる雑な文章」の方が好きなのだ。別にそれが合理的だからとか、純文学的だからとか、なにやらの理屈があってのことではない。おそらく指向性である。むしろ嗜好性かもしれない。
ぼくは自分の文章の構成が好きだ。ぼくは自分の読みづらい文章を何度もかみ砕いて、そのときのぼくが脳の中に何を雑多に投げ込んでいたのかを探っていく読書が実は一番性に合っている。
読者をとるか、自分をとるか。
自分も読者なのだ。だからぼくは読者である自分をとることにした。
ただし、「構成を組み換える以外の推敲」についてはもう少し真剣に考えていきたい。読みにくくてもいい、とは、まったく思っていないのである。これも志向性というよりは嗜好性の話である。
結論として、ぼくは、自分が話し相手になったとき、さらには文章を読む方に回ったときに、「脳内の負荷」がいかに増えているか、みたいなところに背徳的な充実感をおぼえるタイプのマゾなのだと思う。