2019年5月24日金曜日

なにみてはねる

外食が難しくなってきた。あぶらモノが腹に来る。

とくにカツ丼がどすんと来る。なかなか頼めない。

かつて、椎名誠がカツ丼の話を書いていた。無尽蔵の体力の持ち主も最近はカツ丼がちょっとしんどくなってきているようだ。

そういえば嬉野さんもカツ丼の話を書いていた。山形のとある宿のとなりにある食堂のごはんがとてもおいしい、特にカツ丼が絶品だ、という話で読んでいるだけで腹が減るような名文だった。



ものを書く人はどこかのタイミングでエッセイの中にカツ丼のことを書く。

これはぼくが今までの40年間で見つけた数少ない物理学的な真理だ。

世の中には2種類のもの書きがいる。

何かにカツ丼についての話を書いたことがあるもの書きと、これからカツ丼についての話を書く予定のもの書きだ。




なおぼくはいわゆるもの書きを自称するつもりはない。だからカツ丼についての話は以上でおしまいにする。だいいち、ぼくはもともとカツ丼をそう頻繁に食べない。しょっちゅう食べるのは牛丼のほうだ。今日は牛丼の話をしようと思う。

ぼくが牛丼を食べに行く店はある程度決まっている。

5割は吉野家である。

2割がすき家

2割が松屋

そして残りの1割はなか卯だ。




なか卯、と書くと、とたんに昔のことを思い出す。




ぼくは12年前に、築地のあたりでうろうろとしていた。もう干支が一回りしてしまったんだなあ。でも未だに一部の記憶はきちんと残っている。国立がんセンター中央病院(当時)の病理に朝から晩までいりびたり、標本そっちのけで臨床医達と画像・病理対比にいそしみ、論文を読みまくっていたころのこと。

勉強していたって腹は減る。ただしあまり時間はない。築地市場も銀座も目の前だったがそういうシャレオツなザ・トーキョー的飯を食ったことはほぼない。昼は大抵コンビニで買っておいた飯を食った。これが現実である。

がんセンター時代にぼくはあくまで「お客さん」だった。任意研修生というやつである。自分の診断しなければいけないルーチンは少ない。だから1日中勉強ばかりしていたが、仕事もせずに勉強できる集中力の限界はだいたい12時間くらいだった。夕方も6時を越えると少し疲れてくる。7時過ぎにはおひらきにすることが多かった。

慣れない東京生活で疲れたぼくは、夜にあえてどこかに繰り出すようなことはしなかった。札幌においてきた家族のことが気になって、はしゃぐ気持ちにもならなかった。だから結局、毎日毎日、がんセンターのどでかいビルのそばにあったなか卯か、フレッシュネスバーガーのどちらかで晩飯を食った。それ以上遠出できなかったのである。

なか卯、フレッシュネス、なか卯、フレッシュネス。

ぼくはあそこで一生分のなか卯とフレッシュネスを食い終わった。




最近は、なか卯の看板をみても痙攣しなくなったし発疹も出ない。

けれども一時期はなか卯をみるだけで体調が悪化した。なか卯アレルギーだったのだと思う。

長い「なか卯断ち」のすえに、今では10回に1回程度、なか卯に入るようになった。とはいっても、今はそもそも牛丼自体を食べる頻度が減っている。せいぜい月に1度のペース。となるとなか卯に入るのは年に1度くらいだ。

うまいこと減感作療法が決まり、ぼくのなか卯アレルギーは2年ほど前に根治した。

でも、根治したというのはあくまで「生活に支障の出るレベルの症状が出なくなった」というだけであって、まったく症状が消えたわけではない。

カウンターに座って、濁りきったあの冷たいお茶を一口すする。

すると、今でも必ず、当時のことがものすごいスピードで思い出される。





当時ぼくはがんセンター横のなか卯で、インド人っぽい名前の店員とよく顔をあわせた。食券を置くと半分をちぎって持っていくのだが、そのちぎり方がいつも、点線を無視した雑なもぎり方だった。彼はいつもいうのだ、「ぎゅうどんおまちしました」と。お待たせしました、と、お持ちしました、のハイブリッドだ。ぼくは彼のものまねが得意である。けれども誰にも見せたことはない。ぼくはいくつかものまねができる。その大半は人前で披露したことがある。けれどもなか卯の店員のまねだけは見せたことがない。

当時ぼくはがんセンターに通うのに、東銀座という駅で降りて歩いていた。駅からがんセンターに向かう途中には早朝からやっているタリーズコーヒーがあって、ぼくはそこで毎朝、「本日のコーヒー」を一杯飲んだ。タリーズにはとてもかわいらしい店員がいたのだが、2か月くらいでいなくなった。別にその店員のために通っていたわけではなかったけれど、その店員がいなくなってからのタリーズは少しつまらなかった。でもそのことに気づいたのは札幌に帰ってきてからしばらくして、サッポロファクトリーの中に突然タリーズコーヒーができたときのこと。へえ、あのタリーズがこんなところにね、と思って中を覗いた瞬間、「その店員」がいたような気がして、ぼくは東京にいたときのつらい毎日をフルセットで思い出し、手足の毛細血管がいっせいに縮んでこごえてしまった。

当時ぼくは馬込駅そばのクソみたいなレオパレスに住んでいた。まわりには爬虫類が経営しているのではないかと思われるほどにまずいラーメン屋が1軒あった。なぜかぼくは1週間に1度、日曜の昼に、そのラーメン屋に通った。あらゆるメニューが均質にまずかった。でもぼくはそれをまずいと思うだけの味覚を失っていた。何の問題もなかった。札幌に帰ってからとある普通のラーメン屋に入ったときに、急に舌の上に味覚が戻ってきて、なんだ、あの店は激烈にまずかったんだな、と、ようやく気づいた。ぼくは東京で五感のいくつかを失っていた。



築地にいたころのぼくは後から振り返れば激しく人生を転換させていた。

大学院時代、研究に対してはとにかくあらゆることがうまくいかず、絶望に絶望が積み重なっていくだけのがっかりミルフィーユみたいな状態だった。天才だと思い込んでいたまぼろしの自分と決別し、家庭を大事にして遊びを嗜む、地に足の付いた実存としての人間になる必要があった。けれども、ぼくはまだ、自分の頭脳に未練があった。X軸Y軸Z軸それぞれに独立する価値観が配置された空間上で、ぼくはいつも非線形に飛び回りながら、ほんとうにいるべき座標を見失っていた。別のラボからの誘いを断り、大学に残る道もあきらめ、そうそうに市中病院で常勤病理医となることを決めるも、直後に築地での研修が決まったことで、ぼくは自分が「何年目の何」になるべきなのかがわからなくなってしまっていた。



ものすごいスピードで思い出すのは、わからなかったころのこと。

かつてのぼくが「わからない存在」だったことを俯瞰しながら、「わからないままだ」と感じる。





なか卯の牛丼は「和風牛丼」という。

洋風牛丼や中華風牛丼を定義せずに和風を名乗るなか卯の姿勢は卑劣だ。

玉ねぎをつかわずに普通のねぎを使う。

だしの味が「ほら、これで和風になったじゃろう」とばかりに効いている。

だから和風牛丼。安易である。

牛丼というよりも「家庭ですき焼きをやった翌日に、あまった汁とネギを肉に絡めなおしてご飯にかけた丼」だと思って食っていた。

ねぎの中から、ねぎの芯みたいなものがときどきピヨッと出てくる。こいつには味がしみていないことがある。

ねぎは玉ねぎに比べると剛性が高いのか、箸で持ち上げるとしばしば汁がはねてぼくのワイシャツの一部を小さく汚した。

ぼくは築地のなか卯で隔日ペースで、これはなかなかうまいな、と思いながら和風牛丼を食っていたけれど、馬込のラーメン屋で週に一度ラーメンを食えるくらいには舌がばかだった時期の話である、ほんとうはなか卯の牛丼はまずかったのだと思う。ぼくには時間がなかったし余裕もなかった。敗北に満ちあふれた大学院を通り過ぎ、深々と全身に刻まれた無数の傷から血を流しながら、生まれて初めて津軽海峡よりも南で暮らすことになり、燃焼した油脂と蛋白質のにおいがするような焦げた生活の中で、なか卯の牛丼を60回食った。




ぼくはなか卯の牛丼はもう一生分食った。今、1年に1度のペースで、すっかり回復した舌がなか卯の牛丼をうまいうまいと味わうことがあるが、ぼくはそのときに必ずあの頃の、味覚を失っていた頃の苦悶を思い返している。ぼくは一生分のなか卯を食ったあのころに一生を終え、今、一生のその先にある場所で当時のぼくをときおり眺める。なか卯は年に一度食えば十分だ。そういえばなか卯の「卯」とはうさぎという意味ではなかったか。