猛烈な頻度で届く本を(読まずに)眺めていた。どさっ、どさっとデスクに積み上がった。
この中に、書店で選んだものが、半分。
残りはネットで買った。
あからさまに書店で選んだ本のほうに愛着がある。
Amazonは積ん読を増やす装置なのではないか? ぼくはため息をつきながら、そうつぶやいた。
”そうつぶやいた”というフレーズを目にすると、まるでツイートしたように思えてしまなあ。
本来、”つぶやいた”という言葉は、やさしく聴覚に訴えかけるはたらきがあったように思う。
目で読んでも、耳に入り込むようなフレーズだ。
耳の中にある謎の触覚点を通じて、ノドがざわざわと刺激されるような。すこしだけ複雑な、大人の言葉だったはずだ。
けれども、今は、ツイッターのせいで。
すっかり、「目で読んで、視覚が理解するだけの言葉」になりさがってしまった。
まったく残念だ。
たとえば、読書を「視覚的な体験である」と言い切ることはできないように思う。
文字を目で追い、視覚野に記号的な入力を行うことと、その情報が導火線に次々火を付けて、ぼくの脳が同時多発的に燃え上がって、なんらかの情のシルエットがゆらめくことの間には、飛躍としかいいようのない、不思議な変換があるように思える。
読書は、目だけで楽しむ趣味ではない。
ああ、うん、朗読する声が聞こえてくることもある。けれども、聴覚だけ加えたら完成するというものでもない。
五感全てに訴えかけるもの。
かつ、五感だけではたどり着けない、脳の隘路の先にある何かに触れるもの。
ぼくがかつて持っていたあらゆる趣味は、在庫消尽とともに脳内マスタから削除された。
残ったのは本だけだ。
ネットすらツールになってしまった。
残ったのは本だけだ。
強いて言うならば、ぼくであることだけが、本に対抗しうる。
なぜならばぼくを読むことができる読者はぼくしかいないからだ。
もっとも、「ぼくが一番、ぼくのことをよくわからない」という幸福なリミテーションについて、ぼくが自説を曲げることはないのだけれど。