2019年5月23日木曜日

病理の話(325) 遠隔診断という概念が我々からまだ遠く隔たりがある

実際に患者のそばで行わなければいけない「医術」というものは、どんどん少なくなっている。

たとえば、放射線科の用いる画像診断は、遠隔で行うことが可能だ。直接患者のそばにいなくても、画像だけをネットで飛ばせばいいからだ。

北米では、20年くらい前からすでに、CT, MRI画像を「地球の裏側にいる放射線科医」に読影してもらう遠隔放射線診断システムが本稼働している。

遠隔で放射線画像診断をする医者が登録する会社があるのだ。病院は会社と契約して、撮った画像の評価を「外注する」。

記憶によればナイトホークという名前の会社があった。地球の裏側にいる放射線科医だから、読影はいつも(北米時間の)夜中に行われる。なかなかキマった名前だなと感じた。

むかし、スーパーファミコンという古典的なハードにF-ZEROというレースゲームがあった。その中には「ナイトオウル」という名前のコースがあった。

ぼくはナイトホークという名前を聞いたときにまずこの「ナイトオウル」が頭の中で混線してしまった。それ以来、遠隔画像診断の話をするときには、頭の中に、F-ZEROのメタリックな画面とイカしたBGMが思い浮かぶようになった。脳が軽くバグって接続がイカれたのだ。

F-ZEROというゲームはレースゲームなのだが、本編に生きている人間が出てこない。その意味では、遠隔診断のイメージとも完全に離れているわけではない。まあ、その後、スマブラでキャプテンファルコンが信じられないようなパンチを打つようになり、イメージはゆがんでしまったのだが……。




話を変えよう、ダヴィンチという手術システムをご存じだろうか。

https://www.mitsuihosp.or.jp/davinci/

知る人ぞ知る、というにはもうずいぶん普及したシステムだ。

いわゆる「マニピュレーション・システム」である。ロボット手術というと正確ではない。ロボットが自動で手術をしてくれるわけではないからだ。

このシステムには執刀医が必須である。人の役割は失われていない。

執刀医の手の動きに応じて、「千手観音の手のようなロボットっぽくみえる機械」が患者のお腹の中を切って縫ってくれる。




ただ、人の役割は失われていないが、人のいるべき場所については微妙に変化している、ということに気づく。

冷静に考えると、ダヴィンチを使って手術をするならば、執刀医が患者の側にいる意味はないのである。





こういうと絶対に怒られる。

「何かあったときにすぐ対処しなければいけないだろ! 外科手術は放射線画像の読影とは違う! 執刀医は患者の横にいないとだめに決まってる!」

けれども頭を柔らかくして考えれば、「執刀する人」と、「そばにいて対処する人」をイコールで結ぶ必要はないのだ。

そばにいて対処する人は、執刀医とは違ったシフトで、違った給料体系で、より最適化した状態で待機すればいい。経営者であればそこからいくつかの「給料を抑えるためのヒント」を見いだすだろう。

(経営視点のない医者は、めぐりめぐって医療の効果を下げる。)





ちょっと想像するとほかにもいいことがある。

ブラック・ジャックのような「神の手をもつ外科医」というのは最近聞かなくなったが、レアな手術を、すでに何例か経験したことのある外科医がもっぱら担当する、いうことは、今でもよくある。神の手までは必要ないにしても、世の中のほとんどの医者が経験していない手術を先駆的に行う人はやはり神様扱いされる。

この場合、神様を遠方から呼んでくるよりも、遠隔でダヴィンチ的にやってもらうほうが圧倒的にラクだろう。交通費かかんないし。

まあ実際にダヴィンチがそのように用いられているケースはたぶんまだほとんどないと思う(いろいろ倫理とか制度的な障壁があるし、ダヴィンチを使えるケースもまだまだ限られている)。けれど、将来的に、ダヴィンチの適応がもっと広がれば、「遠隔の外科医に介入してもらう」という話も出てきそうだな、とは思う。

何度もいうが外科医は「それはむり!」と言う。

けれども経営者が「それ魅力!」と言ったとき、外科医は反論できるのだろうか?

少なくともぼくは反論できない。






さて病理診断だ。病理診断こそは患者のそばにいる意味が無い。

だからもうどんどん遠隔化していいと思う。

こういうと「切り出し(臓器を直接目でみて、どこをプレパラートにするか決める技術)は、遠隔ではできないだろう。直接臓器を手で触れなければ!」と反論される。

一流病理医ほど、そう言う。

けれども外科医の反論といっしょだ。

「切り出しをする人と、組織診断を遠隔でする人を、分けて考えてシステム構築してみたら、何かいいことが起こらないかな?」

この柔軟な発想こそが医療現場では大切なのではないか、と思う。





今までの医療を担ってきた人たちは、自分たちが理想的な医療環境を作ったと自負しているだろう。

ぼくは今が一番いいと思う。医療は確かに、どんどんよくなっている。

よくぞここまでのシステムを作ってくれた、と、尊敬を払う。

その上でなお、人間のやれることには限界があることも十分承知だ。

都会と地方とで医者は偏在し、患者と医療者の言いたいことは微妙にすれ違い続け、8割の満足はあるけれども、決して10割の満足には達しない。





ぼくはあらゆる医療を遠隔システムを用いて再構築すべきだと思う。

「医療者は患者に寄り添わなければだめだ」という誰もが認めるヒューマニズムを残したまま、一部の「遠隔向きの医療」をどんどん遠隔システムに切り替える。

そうして、浮いた分のコスト……金銭もそうだが、特に、頭脳労働をさまたげる手間の部分を、医療に還元しないと、医療はこれ以上に上がっていかない。





誰かが患者のそばで、患者に寄り添い続けるために、誰かは患者のそばを離れて頭脳労働に特化した方がいいのではないか。

病理医は頭がいい。すぐに気づいてくれるだろう。

ぼくらは知恵の側にこそいるべきだ。