2019年5月29日水曜日

病理の話(327) 医者は顕微鏡をみて何がしたいのか

サッと病院言ったらパッと病名がついて、ガッと治療方針が決まってパッと治る。

これが理想なんだけど、いろいろと障壁がある。




想像してみるといい。




たとえば同じ「かぜ」であっても、

「かぜです! よかったですね」というシチュエーションと、

「かぜです! おつらいですね」というシチュエーションがあるだろう。

ないかな? ぼくにはあるよ。




この2つは単純にとらえ方の違いだろうか?

気の持ちようでどちらかに決まる、という類いのものだろうか?




違うのだ。みなさんもよくご存じかと思う。

ひとことで「かぜ」と言ってもいろいろな「かぜ」がある。

1.ただ鼻水だけが出ているかぜ。

2.ちょっとノドが腫れたかな、くらいのかぜ。

3.なんど鼻をかんでもくしゃみがとまらず、熱があって目のまわりがむくんで、全身がだるくてヘンな音のせきが出る、かぜ。

これらをぜんぶ「かぜ」と呼ぶのは乱暴ではないか? という話だ。




まあ病気の名前はなんでもいいんだけれども、病気を相手にする上では、

・どこが具合悪いのか? 【場所】

・どれくらい具合悪いのか? 【程度】

を考えないと治療なんてしようがない。

同じ「かぜ」だって、程度が軽ければ放置して治るのを待てばいいし、鼻がグズグズしている人に胃薬を使ってもだめだろうさ。





そしてこの「場所」や「程度」を考えるとき、医者は患者を目で見たり、脈を取ったり、胸の音を聞いたり、血液検査をしたりするんだけれど、CTとかMRIまで駆使してもどうしてもわからない、確認しきれない情報というのがいくつかある。

それをみるのに、ときおり、顕微鏡が役に立つわけだ。




たとえばある臓器に棲み着いた「へんな細胞」が、すごく活動性が高くて、周りをぶちこわす力も強くて、ばんばん体のあちこちに飛び散っていきそうな悪いタイプのやつなのか、それとも、しばらく放っておいても別に増えもしないし周りを壊しもしない、良いタイプのやつなのか。

「細胞レベルで、病気の本質が良いか悪いか」を決めた方が治療方針が立てやすいとき。

ぼくらは顕微鏡で、病気の内部にひそむ細胞を見極める。




活動性が高い細胞というのは、正常の細胞に比べると、細胞の形状に違いがある。

具体的には、「いっぱい細胞分裂をして早く増えたい細胞」はおしなべてDNAの入れ物である「核」がでかい。ちょっとでかい、とかじゃなくて、あきらかにでかい。「核」のカタチもおかしい。円形でなくぎざぎざとしていたり、妙な切れ込みが入っていたりする。

「核」以外の部分にも変化が出る。細胞のエネルギーを生み出すミトコンドリアの量が異常に多くなっていたりすると、細胞質の色合いが変わってくる。細胞の本来の挙動である「となりどうし、なかよくくっついておとなしくしていること」が崩れてくると、細胞間の接着度合いがみだれて、細胞がばらばらと離れてきたりする。

細胞は基本的に組み体操をしている。細胞1個で何か仕事をするのではなく、複数の細胞がある程度決まったカタチでフォーメーションを組む。「悪い細胞」はこのフォーメーションをきちんと作らない。不良の学生は運動会で組み体操には参加しないのだ。

これらの細胞が「悪い奴だ」とわかったら、次は、そいつらの配置をきちんと読む。

臓器の表面にちょろっとだけ存在する、っていうのと、臓器の内部に深々と突き刺さっている、というのとでは対処が違うからだ。




病理医の仕事を、「黙って座ればピタリとあたる、安楽椅子型探偵」みたいなものかと想像される方がいる。灰色の脳細胞を存分に使って推測を重ねていく仕事。まあそれも一面の真実ではある。

でも、顕微鏡診断というのは、どちらかというと、「現場に残された手がかり」をきちんと探して、その場で何が起こっているのかを多面的に見極める、「現場型」の仕事に近い。

これをよく、ポワロってよりコナン君に近いよ、と説明している。ときどきキック力増強シューズを使うとなおいい。