今日は何も予定がないから早く帰ろうと決めていた日に、Facebook経由でメッセージが届いた。そこには、
「今日の研究会には参加されますか? そこでちょっと見て頂きたいプレパラートがあるのですが」
とあった。
なんということだ、今日は研究会があったのだ。完全に忘れていた。できればそのまま忘れていたかった。カラッと忘れて帰宅してビールを飲んで寝て、翌日になってメールが3通くらい入って、
「昨日の研究会はご欠席だったようですのでこちらでご相談をいたしますが」
みたいなことが書いてあって、あっイッケネ、忘れてた、テヘ、みたいな感じで人生をうまいことスルーしていたかった。
もうだめだ。知ってしまったからには出なければならない。Facebookはクソである。
人類ってのはいつから「寄り合い」をやるようになったのかな。
集まって、お互いに助け合う。
自分の肩にいっぱい荷物が載っている場合には少しラクになるかもしれない。
自分が今ヒマだという場合にはかえって忙しくなるかもしれないけれど。
あっ、昔は、生存競争に忙しくて、「ヒマ」という概念自体がなかったりして。
孤立して孤独で自由であるというのは、安全が保証されている今だから言えることで、むきだしの大自然に一人で立ち向かったら、ヒマなんて全く存在しなかったのかもしれない。
みんな孤独だと両肩にいっぱい荷物が載っていたのかも。
生まれたての人類(?)は、きっと、そうだったのかも。
だから寄り合ってスクラムを組んで、お互いの荷物をきちんと減らそうとしたのかも。
多くの人が集まると、言葉だけでは会話が進められない(うるさくなって仕事にならない)から、目線とか顔色だけで考えていることがわかるように、顔認識のための脳システムが高度に進化したのかも。
ご先祖様の苦闘の末にたどり着いた今、大自然は見事にパッキングされ、ぼくらは一人で、ヒマをもてあましながら暮らしていけるようになった……。
だから群れなくてもよくなった……。
群れるのめんどくさいな……。
なーんてことを、無責任に、脳天気に、今まさに考えている。
今なんとなく思ったのだけれど、石器時代の人類も、内心、「群れるのめんどくせぇな」って思っていたんじゃなかろうか。
「あー今この瞬間に都合良くマンモスの頭の上に隕石が落ちてきて、俺の目の前にほどよくボイルされた肉がごろんとおちてこねぇかな、それを一人で、誰もこない見晴らしのいい高台で、ひなたぼっこしながらのんびり食って昼寝でもしてぇな」
って思ってたんじゃなかろうか。
いやいや群れていたんじゃなかろうか。
そのときの記憶が、進化の末に、適者生存して、ぼくの脳に残っているからこそ、「群れるのめんどくせえな」という感情が出力されてくるのではなかろうか。
ぜんぜん関係ないことをいうけど「感情の波が押し寄せる」みたいなフレーズ。あれ、「寄せては引く」から波なのだろうか。それとも、定期的に強くなったり弱くなったりを繰り返すから波なのだろうか。
ぼくは感情が強くなったり弱くなったりするのは波というよりもむしろ、バッファにかかるタイムラグなんじゃないの、と思うことがある。脳ほど高性能なコンピュータであっても、すべての感情をノータイムではじき出せるわけじゃないように感じる。リングみたいなポインタがぐるぐると回って脳がカリカリやっている間、感情が出力されない待ち時間があって、そのあと一斉に放出されて、また読み込んで……。性能の悪いWi-Fi環境下で動画をみるように、ぼくらの脳は感情をつっかえつっかえ吐き出している。それは波というよりも……。
まあネットサーフィンっていうくらいだから波でいいのか。じゃあ波でいいです。