2019年5月27日月曜日

病理の話(326) 病理の話を延々と書き続けている理由というかネタバレ

病理の話というのはつまるところ「病気のりくつ」もしくは「ヤマイのことわり」のことなので、えー、ちょっとだいそれたことを言うならば、

「生きている人はみんな興味を持つ」

と思う。



いや、ま、「みんな」って言葉を使うと反発がくるんだけどね。

「みんなってことないだろう」ってね。

「俺はそこまで興味ねぇよ」なんつってね。

確かに、今とっても元気で、若くはつらつとしていて、自分が病気になるなんて信じられない、みたいな人は、自分が具合悪くなったときのことなんて考えたくもないだろうし、リアルに想像もできないし想像するつもりもないだろう。

でも、そういう人もいずれ年を取り、病気のことが気になる日がくる。

一生のどこかでは、多かれ少なかれ「病気のおはなし」に興味が出る。

だからぼくが書いている「病理の話」という連載はずるいんだ。

基本的に病気についてどうこう書けば、それはもうまちがいなく「みんな(いつかは)興味を持つ話題」なわけだから。

ごめんねこんなにアクセス数稼いじゃって。

でもしょうがない。みんな興味があるんだもの。



ただ、ぼくが書いている「病理の話」は必ずしもビョーキそのものについてだけ書いているわけではなくて、実はもうひとつ、大きな柱がある。

こっちのほうは、必ずしも読む人みんなが興味をもつわけではない……。

というか大多数の人はほとんど興味がないんじゃないか、と言われている。

それはいったい何かというと、「病理医というレアな職業人が病院の中でなにをやっているか」ということだ。



こんなことを書くと「いやー私はそういう話興味ありますよ!」というリプライが来るのだけれど、それはあなたがこのブログに対してたまたま適性があるからであって、ぶっちゃけ同じ内容を朝日新聞の朝刊で連載しても連載は2か月ともたないだろうし、報道ステーションのワンコーナーで視聴者に向かって語りかけても「好きな人は好きな話題でした、次です」とか言われてしまうだろう。




「病理医の話」はつまるところ職人と職人芸の話だ。

だから受け取り手を選ぶと思う。

ただし、病院で働いている人々のうち、ごく一部の人だけは、この「病理医の話」をとても熱望する。

このブログの読者であるあなたがちょっとひくくらいのレベルで、病理医の話を聞きたがる人が、病院にも少数だがいるのだ。

それは誰かというと……。




内視鏡医、肝臓内科医、腎臓内科医、血液内科医、腫瘍内科医、放射線科医……。

そう、医者だ。

それも、主に「がんを扱う医者」。

あるいは、がんに限らずとも、医者に限定せずとも、「病理医と日常的に付き合っていく必要がある医療人」である。




病院には看護師がいっぱいいる。栄養士も理学療法士もソーシャルワーカーも、医療事務を担当する人も、清掃やリネンを担当する人も、食堂とか理髪店とか売店で働く人もいる。その大半が病理医のやっている仕事そのものには興味がない。

そして、医者だけをとりあげてみても、医者の7割程度は病理医のことを知ろうとは思っていない。必要に迫られていない。そこまで興味をかきたてられていない。

糖尿病や高血圧をしっかり管理していくタイプの医者は病理医のことを知る必要がない。

救急車から転がり出てくる患者の生きるか死ぬかに直面する救急医は病理医のことを知る必要がない。

大半の外科医も、病理医のことを別に知らなくても食っていける。やっていける。





けれども、限られた一部の医者は、病理医のやっていることに興味が有る。

病理医が、顕微鏡を用いて細胞を観察し、そこから何かを導き出すプロセス。

結果だけではなく、途中経過……思考の筋道そのものを、知りたがっている。





かつてある内科医が、ぼくにこう言った。

「細胞を直接みられるんだから病理医ってのはラクな仕事だよなあ。直接みられないものを推理しているぼくらからすると、犯行現場を直接みて考える探偵みたいなもんで、ずるいなあって思うよ。」

この内科医は、病理医の出す結果には興味があるのだが、「思考のプロセス」に興味がない。

病理医が何をみて、どう考えて、レポートにまとめているのかを「ラクで、ずるい」とまでしか評価していない。

この内科医だけが特に薄情なのだろうか? ぼくはそうは思わない。

大半の医者は……病院ではたらくほとんどの人は、同じ意見だと思う。

あるいはそこまでの意見すら持っていないだろう。「病理医? 別に知らんでもいいわ。知らんけど普通にしっかり働いてくれとったら、それでいいわ」。




ぼくらはみな、究極的には、他人の仕事の「結果」には興味をもつのだけれど、「それが生み出されるプロセス」に興味をもつのはずっと後回しになる。

テレビがなぜ映るのか。

飛行機がなぜ飛ぶのか。

興味はもったことがあるだろう。でも、それを最後まで追究した人が世の中にどれだけいるだろうか?

「なんか難しいことがあるんだな」だけで、まあよしとして、得られる結果だけを享受するのが、普通の人間だ。





病理診断という仕事もこれといっしょなのである。

「病理ってどうやって診断出してるんだろうなあ」と、「テレビってどうやって映ってるんだろうなあ」みたいなノリで、くびをつっこんでいろいろ調べてみても、ほとんどの人は、「うん、なんか難しそうなことやってるってのはわかったよ。」と言って、プロセスを理解することをあきらめる。

それが健全だし普通だと思う。




けれどもぼくらは、職人的な人間は、いつか誰か、ニッチでマニアな、ぼくらの仕事のプロセスにとても興味をもつ人が激レアなタイミングで出現したときに備えて、

「病理医ってのはこういうことをやってます」

と、書き記しておく必要がある。

だって少なくとも、病院の中の、3割くらいの医者は、ぼくらがやっている仕事に興味がある、さらにいえばその思考プロセスとかメカニズム自体にも興味があって、これらを直接仕事に活かそうとしているのだ。

たいした数じゃない。

少ない。

マニアだ。オタクといってもいい。

けれども、「世界の誰が読むんだろうこんなもの」という文章に、心を踊らせる人がいると知ってしまうと、ぼくらはそれを用意しておかなければという義憤に駆られる。





病理の話はかれこれ300回以上書いているのだけれど、その半分くらいは、世界の片隅でじっと病理医に興味を持ち続けているレアキャラのために書かれたものだ。

あなた方、普通の読者のみなさまが、そうと気づかずに、オタク向けの文章を、つい読んでしまっている、という構造をつくるために、ぼくはツイッターというシステムを悪用している。

あなた方、の中にひそむ本物のマニアがよろこんでくれることを目指しつつ、あなた方、ぜんぶが「悔しいけどオタクの心意気を感じちゃう」くらいに育ってくれるように、ぼくはずっと悪巧みをしている。





実をいうとぼくはお気軽な推測をしていて、それは、

「たぶんほとんどの人は丁寧にお膳立てをすると、テレビがなぜ映るのかを完全に理解してよろこぶようなマニアックな性癖を隠しもっている」

ということだ。この見通しは甘いかもしれないが、あながち外れたモノでもないんじゃないかな、という、仄暗い確信のようなものがある。