2021年2月5日金曜日

病理の話(502) めずらしい場面をみんなに教えつつ学ぶ

たまに医者が「学会で発表」とか「論文を執筆」みたいなことを言う。今日は具体的にどういうことをやっているのかをつらつら書いてみる。


実際の症例を使って今日の記事を書くわけにはいかないので(個人情報保護というやつだ)、ぼくが今座っているデスクの周りにある本の中から一冊を適当に選んで、パラパラめくって、ぶちあたった症例を元に架空の物語をでっちあげる。ちょっと待って。


ダララララララララ(ドラムロール)




デデドン! これにしよう。肝臓の教科書を取り出して開き、適当に考える。よし……。



じゃここからはドキュメント(※フィクション)形式にします。








ぼくは武者小路麗介、29歳、身長197cm、中学校時代にはジュノンボーイのグランプリをとってからジャニーズで単独デビューして今はカンヌ国際映画祭の常連でドバイに家があって奥さんは3人いるんだけどたまに日本で病理医をやっている。

先日、ぼくからみると頭2つ分くらい背の低い内科の医者から相談を受けた。

「武者小路先生ちょっといいですかごめんなさい。今度手術になる肝臓の腫瘍の症例なんですけれどごめんなさい。実はCTでもMRIでも診断がつかなくてごめんなさい」

彼は、ぼくを見るとオーラにやられて、しゃべると全ての語尾にごめんなさいをつけてしまう奇病にかかっている。予後は悪くないので放っておくがかわいそうなことだ。




(……このペースで書くと終わらないので普通にやります)





臨床医が、患者の肝臓に2 cmくらいのカタマリを見つけた。さまざまな検査を行ったが、一般的によく知られている病気とはどことなく雰囲気が違う。

手術によってそのカタマリは体の中から除去された。

そして、病理医は、顕微鏡を用いてカタマリを詳しく調べた。



この病気は実にふしぎな性質をもっているということがわかった。

病理医が診るに……


「病気Aの性質を60%、病気Bの性質を40%持った、ハイブリッド」


だった。うーん、見たことがない。病理医は驚く。




さあ、今日の話はここからだ。




まず、驚きの結果を臨床医(主治医)と共有しよう。とうぜん、主治医もびっくりする。患者に説明し、一緒に考えるにあたり、無策では当たれない。今後の治療方針などを検討するためには勉強をする

勉強をする

大事なことなのでくり返した。珍しい病気だったら医者はただちに勉強をする


ありふれた病気であれば医者はこれまでの勉強の蓄積で対処ができる(ことが多い)。けれども、医学というのは日進月歩だから、先週勉強したからといって今週のんびりしていると情報が新しくなっている、なんてこともある。だから日ごろからちゃんと勉強をする。


そして、「珍しい病気」というのは、主治医にとっても経験が浅いのだ。だからこそ、すかさず勉強をしないといけない。それもかなり本気で。ググって終わりではだめだ。


「過去に似たような病気があったかどうか」


「誰かがこの珍しい病気について書いていないかどうか」


先人の知恵。


今この瞬間にも似たような症例を経験して診療を行っている人たちの方針。


とにかく自分一人で勝手に判断してはいけない。人間ひとりの思考能力なんてたかがしれている。絶対に見落としがある。不備がある。思い入れで考えが偏る。まして、珍しい病気を相手にするならば。自分の脳を過信してはいけない。


この珍しい病気をもった患者に対する「方針」を注意深く探り、診療を進めよう。勤勉な医者であれば、おそらく、年に何度かこういうシーンは訪れる。


そして、同時に……


今この瞬間、世界のどこかで、似たような珍しい病気に直面している他の医療者のために、「珍しいと思ったこと」を記録して世に出す






どうやって記録して世に出すのか?


まずは……身近なところ、つまり自分の勤め先できちんと相談をしよう。当たり前なんだけどこれを怠るとロクなことにならない。臨床医たちと、「今回の病気ってどこがどう珍しいのか」を確認しあおう。一人で勝手に「うわあ珍しい!」って騒いでみたはいいが、よくよく調べると、それほど珍しくもない(教科書にもいっぱい載っている)なんてことは、まれによくある


「個人の体験から言うと珍しい」、にはほぼ説得力がない。人間というものは一生を通じて、ほんとうにわずかな体験しかできないのだな、ということを毎日のように感じる。とことん、思考に参加する脳の数を増やす。これがまじめに医療をやるコツである。


「身内」とさんざん話し合って、さんざん教科書を調べて、さんざん論文を検索したら……。


「学会」に報告をする。学会というのは専門家が集まる場所だ。どれくらい集まるかというとそれは学会のでかさとマニアックさによって異なるのだけれど、医療系だと、でかいものではのべ10000人規模、小さいと100~200人といったところだ。


世界各地でがんばっている専門家に、この症例のことを見てもらうのだ。


形式を整える。「ポスター」というやりかたと、「口演(オーラル)」というやり方がある。ポスターというのは、「学会」の会場の中にあるでかいスペース(体育館くらいあることもある)に、クソデカポスター(例:180×90 cm、あるいはA0と呼ばれるサイズなど)を貼って症例を見てもらうやり方。「口演」はみんなが座っている会場の前で校長先生っぽくしゃべる、なおパワーポイントを使ってスライド投影をしながらしゃべることが多い(漫談ではない)。


一般に若い医者はオーラルの方が格が高いと思っているフシがあるが、ぶっちゃけ、格うんぬんでいうと、「学会発表というくくりの中では多少の上下があるが、医者の仕事全体から眺めればどっちも大差ない」。自分のやりたいことに見合った形式を選ぶことが大切だ。

気心の知れた自院の友人達ではなく、他院の専門家たちに見てもらうわけだから、ある程度「お作法」を守る。形骸的にととのえろ、と言っているのではない。お互い忙しいんだから過不足なく情報をやりとりするために様式を守ろうぜ、ということ。


まずは背景をきちんと述べる。Aという病気がありますよね、そしてBという病気もありますよね、でもAとBのハイブリッドは珍しいですよね、と。イントロは重要。

次に、その症例が具体的にどういう患者から発生したのか。

そして各種の検査をどのように行ったのか。

検査の結果をどう解釈したのか(検査の結果がどうだったのか、ではない。そんなことは素人でもできる)。

細かく、かつ簡潔に記載する。このバランスは難しい。理路を整備する。破綻があるとすぐばれる。

発表の中には、自分がこれまで必死で勉強した結果をまとめておくようにする。珍しい病気を前にした専門家たちは、「えっ、こういう病気ってどれくらい珍しいんだろう」、「家に帰って早く検索してみたいな」と思うはずなので、「こちらにご準備してございます」とスッと差し出す。腕の良い執事を目指す



こうして学会に発表すれば、自分の経験した珍しい症例を世に出したことになるか?


じつは、そうではない。今からすごく大事なことをいう。


学会に出すと、各地の専門家からツッコミが入る。これを蓄積して論考をさらに磨き上げることが大事だ


自分の勤め先では臨床医も病理医もそろって「めずらしい、めずらしい」と言っていた病気が、超専門家の前では、「まあ珍しいことは珍しいんですけれど、うちではたまに経験しますよ。」みたいに判断されることもある。


また、逆に、他人によって、「あなたがたはこのポイントPが珍しいと思っているようですけれど、私からすると、こっちのポイントQも十分珍しいと思うんですよ。だから診療が難しかったんじゃないですかね?」のように、論点を増やしてもらえることもある(よくある)。


つまりは関わる脳の数を増やすのだ。学会発表をきちんとやると、どんな症例であっても必ず「リアクション」がもらえる。そのリアクションを踏まえて、論考を鋭くした上で、論文として投稿する。


学術論文というのは後世に残る。検索にもひっかかる。学会でのトークは、症例に対する知見を増やす上でとても貴重だが、そこでなされた会話は世界にストックされるかというと、実は、そうでもない。一期一会で終わってしまいがちなのだ。あとでググっても学会での議論の様子はまず出てこない。

だから文章にする。雑誌に載せる。そうすれば100年経ってもググれる知恵になる。100年後にGoogleがあるかどうかはともかくとして、PubMed(医学論文検索サービス)はあってほしいものだなあと思う。


さあ、論文投稿なのだが、書いて出せば載せてもらえるというものではもちろんない。


学会のとき以上に、「ツッコミ」が入るようになっている。これを査読という。専門家たちが論文を読み込んで、この論理が狂っているとか、ここは著者は珍しいと言っているが本当にそれほど珍しいのかとか、過去に似たような論文を書いた人がいたがそれと比べて今回のはどう違うのかとか、そもそも検査の解釈がおかしいのではないかとか、この写真は汚くて見るに堪えないとか、そういったことをネチネチ突いてくる(※善意でやっている)。


査読が得られる雑誌に投稿すると、だいたい6割くらいは「掲載不可」と言われる。これにはいろいろな理由があり、「いい論文なんだけどうちの雑誌にはそのジャンルは要らないんだよ」と言われる場合もあるし、「珍しいっていうけど珍しくないよ」みたいなこともあるし、「ちゃんと考え直せバカ野郎」みたいに怒られることもある。


では掲載不可と言われたら、投稿をあきらめるのか?


あきらめない。自分という一人の医師が、日常現場で困ったこと、つまずいたこと、勘違いしたこと、これらの経験を後世に残すためには、どこまでも粘る。10回掲載を断られても11誌目が反応してくれることもある。


査読のない雑誌(ツッコミがこない雑誌)に投稿するのはあまりおすすめしない。そういうのは自己満足だからだ。もっとも、査読がない雑誌がすべてダメなわけではないのだけれど、ここを語るのは本稿の範囲を明らかに超えるのでやめておく。肌感覚でいうと査読のない雑誌の半分はクソでありハゲタカ、もう半分は善意にあふれた商業誌である。




ずいぶん長くなってしまった。最後にぼくの日常的目標を書いておく。


ぼくの目標は、2年に1度は自分できちんと論文を書く、ということである。大学にいるわけではなく基礎研究を進めていないこともあり、論文を書かなくても給料はもらえるし、ぼくは多数の医師と連携して共同で論文を書いているので、自分が2番手、3番手として協力した論文は毎年少しずつ出してはいるのだが、それとはべつに、自分が1番手となってちゃんと論文に携わることが大事だと思っている。


現在関西医大で教授をしている関西弁の人から、「市中病院で病理医やってるとあるおっちゃんがいてな、まあもうジイチャンって歳なんやけど、2年に1度きちんと症例報告を出してるセンセがいるんや、ワシあの人尊敬しとんねん」と言う話を聞いて以来、よし、ぼくはそういうタイプを目指そう、と思った。14年前の話だが今でも覚えている。現場に出てみてわかるのだけれどこれってすごく大変だ、特に英語で出そうと思うと骨が折れる。でも、やりがいがある。