2021年2月15日月曜日

伝わらないことを利用する

声や、言葉。


それが「誰に向けられているか」によって、ぼくらは無意識にアレンジの仕方を変えている。


いわゆる独り言は本人だけが了解できればいいので省略が多くなる。


前提はすっとばしていいし、結論が見えた時点で口に出すのをやめることもできる。


独り言はハーケン(登山のときに山肌に打ち込むやつ)みたいなものだ。手がかり、足がかりにはなるが、置いてきぼりになることもある。いかにも意味深だが、登山者本人の一部というわけでは(必ずしも)ない。


一方で、目の前にいる人に「説明」しなければいけないときは、言葉がハーケンであってはいけない。


今から言うことが何につながっていて、どういうきっかけでそれを考えて、どのような筋道で、どこにたどり着こうとしているのか、すなわち「来し方」と「行く末」と「今ここ」とをすべて揃えないと、伝わらない。





ところで、目の前にいる人に「独り言っぽい何かを聞かせる」というタイプのコミュニケーションがある。


「今から言うことは独り言だから、あなたにはすべては伝わらないかもしれないけど、そんなことはわかっているんだよ、ぼくはとにかくあなたに、『なにかむつかしいこと』を考えているテイを見せたいだけなんだ」


という意図が、実際、よくあると思う。


伝わらないことを前提としたコミュニケーションだ。






先日、ある商売の上手な人……と思われている人がテレビで、商売の方法を説明していた。スタジオでは芸人がそれを茶化している。


コーナーの終盤に、「ほんとうはもう一つしゃべりたいテーマがあったのに、芸人たちが余計なボケやツッコミを入れてくるから、最後までしゃべれなかった!」と言って、画面に一瞬、テロップのように「ほんとうはしゃべりたかったテーマ」を表示させた。


でもこれは生放送ではない。収録である。だから、「あっ、やったな」と思った。


もし、ほんとうにこの商売人が「しゃべりたい」と考えていたテーマがあったなら、どうせあとで編集してくれるのだから、かまわずしゃべればいいのだ。打ち合わせだってしているはずである。用意したテロップを最後までやらない、というディレクションは演出意図でしかない。尺に合わせて、芸人のトークをカットして最後のテーマの場面を流すことだってできる。もちろん、最後のテーマは使わないと編集側が考えることもあるだろう、でもその場合、最後に一瞬だけテロップで流すような「チラ見せ」をする意味はない。ばっさりカットすればいいだけの話だ。


つまりこれもまた計算なのである。こっちにはまだあるんだぜ、という「隠し」や「含み」を利用して、視聴者の興味を惹き付けようという試みだ。


「えー何何~、まだ何か考えてるの」


と思わせて、こっちを向かせれば勝ちなのだ。




汚い手を使うなあ……と思わなくもないが、テレビ的な編集の場でなくても、ぼくらはしょっちゅう、「自分の中では省略してしまえること」と、「相手との間で丹念に掘り下げなければいけないこと」と、「その中間」で、ふらふらうろうろする。


ほのめかし、偏り、誤読からのひっくり返し。


もはや文芸だ。そうだ。ぼくらのコミュニケーションはもはや文芸なのだ。




「ずっとだらだらしゃべること」は表現の一形態である。そこでできることがあり、それだと伝わらないことがある。後者の「それだと伝わらない」を利用して自分の評判をうまく上げるタイプの人までいる。


「短く断片を書いて余韻を残すこと」も表現の一形態だ。それと一緒なのだ。ぜんぶ一緒なのだ。そして、ぜんぶ違うのである。