2021年2月9日火曜日

病理の話(503) エライ人がまとめりゃいいってもんじゃないんだよ

学術論文では、過去の研究者がすでに導いている結論を「引用する」ことがとても重要だ。


「Aらの報告によれば、BはCであるとされる。」のように書く。


「Aさんたちが前に言ってたよ。」をまず述べて、「ぼくもそう思うよ。」と続ける。これが論文の考察部分の、9割を締めると言ってもいいだろう。


慣れていない人が読むと、「なんだか、昔の人々の結果ばかり引用して、自分オリジナルのアイディアがなかなか出てこないな。つまんないな。」と考えがちだ。


もっと純粋に、自分の大発見について述べればいいのに、と思ってしまう。


しかし。


実はこの、「今から言うことの9割はもうわかっていることだよ。ぼくがここに新たに、1割だけ知識を付け足すよ」というやりかたこそが、サイエンスなのである。



偉そうに言うけどぼく自身、このことが身にしみてわかったのは4年前のことだ。



4年前、ぼくは、「レビュー」と呼ばれる論文を書いてみろと言われた。仕事を依頼されたこと自体は光栄だなと思ったけれど、実は、あまり気が乗らなかった。

なぜか? それは、「自分はこのジャンルの論文を書く資格がないのではないか」と思っていたからだ。

まず、依頼された分野は「食道と胃のつなぎ目の部分に発生する病気について」であった。ぼくが自分の病院で、自分でいちから経験した「食道と胃のつなぎ目の病気」は、せいぜい20例程度であり、そんなに多く経験する病気ではなかった。

もっとも、ぼくは他の病院から診断の相談(コンサルテーション)を引き受けることがある。よその病院から依頼されて診断した症例は100例程度あった。つまりは、自分の病院の中で診断した症例よりも、他施設に頼まれて相談に乗った症例の方が多かった。

このため、ぼくがこの領域に詳しいとは言っても、なんだか、「人のフンドシで相撲をとった経験が多いだけだなあ」、という気がしていた。そんな状態で、論文を書いていいのかなあ、と純粋に疑問だった。



それに、レビューという形式にもあまり気乗りがしなかった。レビューというのは、「他人が言っている話を多く引用して、そのジャンルで今どういうことがわかっているかをざっと振り返る」みたいなものをいう。つまりは過去の焼き直しであり、自分のオリジナルな意見を書く必要は必ずしもない。たとえるならば、「Yahoo!個人記事。今わかっていることをまとめてみました。」みたいなものであり、「ボリュームが少なめの教科書」にも近い。そういうのはぼくよりはるかに経験があるセンセイが書くべきで、当時のぼくみたいな「中堅にさしかかる直前の若手」がやるのはおこがましいだろう、と思った。


だからぼくは、一度この話を断ろうと思った。


「ぼくよりふさわしい人がいるんじゃないかと思うんですよ。だいいち、レビューって、もっとベテランの人、大御所が書くものなんじゃないですか?」


すると、論文の依頼をしてくれた人が、こう言った。


「レビューみたいな仕事は、エライ人がやるんじゃなくて、これからがんばろうという若手こそがやるべきなんだ。だって、他人の論文を大量に読んでまとめるのって、勉強になるだろう?」




あっ……と思った。その発想が純粋になかった。




そもそもサイエンスは過去の学者達が積み上げてきた成果の上にさらに知恵を重ねていくものだ。「巨人の肩の上に立つ」という言葉がよく知られている。あとからやってきた研究者がたった一人で、「ぼくにはこう見える」を言っても、そんなもの、誰も相手にしてくれない。いかにくり返し、いかに積み重ねていくかに本質がある。


そして、積み重ね、積み上げたものを、いつも振り返る役目というのも必要なのだ。文字通りの「エライ人」たちは、何度も何度も振り返った記憶があり、そのジャンルのことをよく知っている。しかし、若手は、まだそのジャンルを俯瞰した回数が少ない。「巨人」のことをあまり知らないまま現場で働いている。


だから、「若いときこそ、レビューを書くべき」なのだ。ははあなるほどなあ、と思った。エライ人がまとめりゃいいってものではなかった。



https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/28425656/



4年前と3年前に、小さなreviewを2本書いたあたりで、ぼくは「ひとつの領域の論文を片っ端から全部読む」ことをようやくできるようになった。ミニ教科書を書くような仕事は、読者のためになるだけではなく、だいいちに著者自身の経験になる。みんなに頼られる人だから書くんじゃない、書き続けるから頼られるようになるんだという、因果の逆転をぼくは味わい、それ以降、「学術に関する執筆」について、前よりもだいぶやる気が出せるようになったし、「書かずにベテランを名乗ること」の怖さもじんわりと感じられるようになったのだ。