2021年2月1日月曜日

病理の話(500) 書き慣れている図

マンガ『フラジャイル』の13巻にて、ある泌尿器科医が登場する。


彼の名は大月という。無造作な髪、1日前に剃った髭。どう見ても怖い。迫力の土俵入りみたいな雰囲気がある。


大月が、病理医・宮崎(モルカー的なキャラ)に、腎臓移植について説明するシーンがある。ここで宮崎は、腎臓のことなら知ってます、いちおう医者ですので、と言うのだが、大月はばっさりと「わかってねえから説明する」と語る。


長年、腎臓病と向き合ってきた大月は、他科の医師である宮崎や、読者である我々が、「腎臓移植というのはこういうものだろう」となんとなく……あるいは、最低限度、知っている内容をはるかに越えたものを語る。


それは決して難解ではない。むしろ、わかりやすいくらいだ。


ペンを持ってホワイトボードにスラスラと腎臓を書き込んでいく。一発書きで。


宮崎は思わずつぶやく。「書き慣れている これ 今まで何度も患者さんに説明してきたんだ」


大月の描く絵は、本当にわかりやすい。


ルール違反だと知ってはいるが、あえてそのページの一部を写真に撮らせてもらう。意図を察して欲しい。





このシーンの作画は鬼である。もともと漫画家・恵三朗先生の画力は異常に高いのだが、「絵が巧い漫画家が描いたから、登場人物が描いた腎臓も上手だ」というわけではなく、泌尿器科医・大月がいかにもこれまで「多数の患者相手に何度も何度も描いて説明してきたからこそ描けるレベルのうまさ」だな、とはっきりわかるのだ。

記号化された腎臓、しかしそこには、ぱっと見で「ここは管、ここは実質」とわかるような、それでいて「絵の素人である大月が用いることが可能な」絶妙の効果が潜んでいる。腎臓の立体性を増すためのチョンチョンチョン線、適切な線引き、「患者がいちばん気になる治療の頻度の部分をフキダシで書き入れる感覚(すごいわかる)」……。




そう、「漫画家が描くからうまい」のではない。確かに大月はこれを何度も説明してきたんだろうなという歴史をにじませているこのシーン全体がうまいのだ。




その上で今日の本題である。




世の中には天才が山ほどいる。はじめて出会った難問を解き明かすタイプの知能というのもある。多く経験していることが必ずしも、上級であることを意味しない。そんなことは承知の上で、言う。


「経験を重ねることで説明がうまくなるタイプの人は、確かにいる」。


もちろん、何度も何度も場数を踏むことで、かえって細部が雑になり、説明が適当になり、「素人向けの説明がへたくそになるタイプの有識者」というのも、世の中にはいっぱいいるのだけれど。


こと、患者に向き合う大月のように、「説明するたびに、患者がどのタイミングでわからなさそうな顔をしたかを全部おぼえて次に活かそうとする」タイプの人……


「質の高い経験を数多くこなし、その都度フィードバックで自分を成長させた人」には、なんというか、レベルの違う説明能力が備わることがある。





ただ数を重ねてもだめなのだ。


少しでもいい反応が、相手から帰ってくるように。


500回、1000回と、回数だけ誇ってもだめなのだ。


せめて昔の自分より、今の読者が、わかりやすいと言ってくれるように。