2021年2月8日月曜日

忘れる機能

勉強の速度を落とさないことが難しい。スキマスキマに購読雑誌を読んでいく。『胃と腸』、『病理と臨床』の2つは日本語ですぐ読めるし、これをぼくが読んでいることを前提として質問してくる臨床医や病理医がけっこういるのでなるべく早めに通読しておく。American Journal of Surgical Pathology (AJSP)もざっと通読する。これらはとにかく、「見出しくらいは覚えている」状態にしておかないと、ネットワークの中でノード(中継点)として働けなくなるので、積ん読しないほうがいい。


積ん読や「あとで読む」が許される本としっくりこない本とがある、ということを思う。思考の強度が強い本、あるいは、叙情的な本、もしくは、詩、そういったものはいつまで積んでもいいし、積むことで周りにほのかに香りがしみだしてくるような感覚がある。一方で、「買ったらすぐ読まないとぼくの興味が離れていくので読めなくなる本」が確かにある。また、「買ったらすぐ読まないと味わいが落ちるタイプの本」というのもあると思うのだ。本は積んでなんぼ、という人に話を聞いていると、この、「躍り食いにしか向かない本」をあまり読んでいないと感じる。一方のぼくはたまに「踊り読み」をする。旬を逃さないためだけに読む。「受賞作を読むこと」もその一環かもしれない。ものすごくおすすめするわけではないが人によっては人生を少しだけ華やかに、あるいは騒がしくできるだろう。ねっとりと味を楽しむものではない。のどごしが勝負だ。


ぼくは原則的に「読み終わってから積む」ほうが好きなタイプの人間であり、積ん読があると消化したくなる。さらに言えば、定期的に蔵書を捨てて本棚をカラにしないと落ち着かない。ただ、本棚ひとさおをまるごと捨ててしまうようなふるまいはさすがにやめた。かわりに、一冊読んでつまらなかったらその日のうちに捨てる。そうすればあとでまとめて捨てる手間がいらない。


なるべく手持ちの本を少なくするため、医学書については職場の本棚を活用すると共に、処分の仕方も考えている。買った本のうち「辞書として使えそうな本」は残すことが多い、もっと言えば、「さくいんを使って初読時の感動を引き出せそうな本」は手の届くところに置いておく(よっぽど著者と編集者とデザイナーが優秀じゃないとうまくいかない)。一方で、「物語として読むタイプの医学書」は研修医室に寄贈してしまうことが多い。1冊3000円以上、ときには12000円くらいすることもザラな本を一度読んで人にあげるなんて贅沢の極み……とは全く思わない。後輩たちだってぼくからやってきた本を勝手にブックオフに売り飛ばしたりはしないし、本に線を引きながら何度も読みたい研修医はぼくの本を読んだあとに自分で買い直しているから回し読みの罪悪感もさほどない。ぼくが再読したくなったら、もう一冊自分用に買い直す。これで誰も損しない。


おもしろかった本はなるべく本棚に、意図がある感じで挿す。どの本とどの本の間に置くかきちんと悩む。その本をもらったときにいっしょにいただいた手紙やマスキングテープの断片などを、しおりがわりに本に挟んでおく。数年越しに照れることも可能である。


背表紙を定期的に眺めることでその本を読んだときに自分の心が受けた衝撃を思い出し、そのインパクトで自分の毎日を駆動する、ということをたまにやる。


人間の脳は忘れる機能を持っている。進化の中でそのようになった。だからほんとうは、覚えすぎないほうがよいのだと思う。表紙を見てふと思い出す、あるいは、まだ読んでもいないけれど表紙を見てなんとなくこうかなと思う、くらいの段階が一番脳にとってはいいのかもしれない。そういうことはわかった上で、毎日のように思う、「勉強の速度を落とさないことが難しい」。つまりはすべて言い訳なのだ、本を読むことも、読まないことも、生きていくことも、やっていくことも、眺めているだけで思い出した気になることも、忘れたい忘れたいと言いながら延々覚えていることも。