2021年2月16日火曜日

病理の話(505) それは俺の仕事じゃないと言う病理医

診断がわからないことは、ある。


患者からとってきた検体をいくら見ても、いくら免疫染色をしても、「おそらく悪いものだ」とまではわかるのだが、「具体的になんという病気なのか」がわからないことは、ある。



そういうとき、病理医がさまざまな教科書や論文を調べて、わかるまでがんばるというのは大事なことだ。これはいわゆる美学の問題か? いや、ハイアベレージな結果を残すために必要な努力、あるいは職能の話だと理解している。


また、本を調べるとか、人に聞くとかいった「他力本願」だけではなくて、わからないなと思ったらいったん気持ちを落ち着けて、ほかの仕事をして、少し時間を潰してから、あらためて顕微鏡を見直すことで、さっきは見えていなかった細胞のあれこれに気づくということも、ある。


けっこう多くの病理医が、かなりの時間をかけてひとつの診断にたどり着いた経験を持っている。


普段は多くの細胞を文字通り「瞬間的に診断」している、現役バリバリの病理医であっても、時間がかかるときはかかる。


病理診断は脳を使う医療である。歩き回るよりも、手を動かすよりも、「早い」だろうと思われがちだが、意外とさまざまに時間がかかる。





さて、診断がなかなかつかないときにどう行動するかは、病理医ごとに特徴がわかれるように思う。


A. ただちに、目上の病理医、同僚などをまきこんで、みんなでわからないわからないと大騒ぎしながら診断しようとするタイプ。


B. ぎりぎりまで自分で考えたいために、抱え込んで、何日も熟考して、どうにもわからないとなってから誰かに相談するタイプ。


なんとなく予想がつくと思うのだが、基本的にBはけっこうやばい。自分より経験のある病理医にさっさと相談すれば道が開ける可能性があるのだが、それをせずに、自分の能力を過信して、ああでもないこうでもないと時間を重ね、結果的に患者や主治医を長く待たせてしまうことになる。


ただし、「すぐに他人の力を借りるA」というのも、(おそらく皆さん予想されてはいるだろうが)けっこうあぶなっかしさを含んでいる。これがわりと理解されにくい。


マニアックかつ概念的な話で恐縮なのだが、病理診断においては「ファーストタッチをした医者が最初に立てた仮説」が思いのほか重要だ。


「最初にしっかり見た私としては、病気Cと病気Dと病気Eで迷っています。」


この基準が最初にビシッと定められていると、いかに難しい病理診断でもなんとかなるものである。


しかし、最初にその症例にあたった人が、ろくに顕微鏡を見ることなく、難しいからわからないと叫び倒して人に聞きまくる場合は、この「序盤の仮説」が弱い。


すると、診断全体に悪影響を及ぼすことがある。これについては本当に言語化が難しい。「あまり誠実でない病理医が中心にいると、周りにいくら優秀な病理医が集まってもなかなか診断がいい方向に進まない」とでも言おうか……。




病理医のなかには、ごくまれにだが、、標本を見て、たいして考えもせずに、「この検体は小さすぎるので診断ができません」とか、「病変の一部分しか見えないこの検体だと診断は決まりません」とあきらめてしまい、「たぶんがんだがそれ以上はわからない」というタイプの診断を書いておしまいにしようとする者がいる。


めったにいない。最近はまず見ない。けれども昔は、いた。


「ここから先は病理医が決める話じゃないよ。臨床医がもう少し頑張って、検体を取り直すなり、ほかの検査で診断を決めてくれなきゃあ」


みたいな態度を前景に出して、目と脳の努力を惜しむタイプの病理医が、かつてはけっこういた。




もうちょっと、ここで自分がやれることはないだろうかと、ねばってみろよ。


よく、そのように、頭の中で唱えていたものだった。近頃の病理医は優秀な人ばかりで、こんなやきもきした思いを抱くことも少なくなっている。