2021年2月19日金曜日

山の神の感覚

今、このブログに数行の文章をぱたぱたと入力していた。ところが途中で爪が伸びているのが気になり、モニタから目を話して、爪を切ってから視線を戻したら、自分がついさっきまで入力していた文章が気に入らず、すべて消してしまった。


爪を切って戻ってきたときには、視点が接写から俯瞰に戻ったかのような感覚になっていた。中国四川省にあるような、切り立った尾根と尾根のはざまに通った隘路を抜けるように慎重に言葉を紡いでいたつもりだったのだけれど、いったん上空に意識を飛ばしてしまうと、再び谷間に降りていこうと思っても、もうその深い渓谷のどこから歩みを再開すればいいのかよくわからなくなってしまった。


いったん「没入」したら、ある程度の時間はそのままでいなければだめだ。


「ふと冷静になる」のがあまり早いといけない。


ズームアップからロングショットのモードに戻るのが早すぎるといけない。


もちろん、いつまでもいつまでも狭い一人称の視野に凝り固まっていては文章がアンバランスになっていくばかりなので、どこかのタイミングで自分の書いたものを三人称視点で眺めなければいけないのだけれど、最初から三人称だとぼくはうまく文章が書けない。序盤、ある程度までは勢いで突き進まないと、その後安定走行に達することができない。




書く前から全体像がぼんやりと見えているような文章を書くのが苦手だ。学術論文のようにゴリゴリのお作法がある文章だとまだいけるのだけれど、エッセイテイストのブログなどを書くときに、「よし、このオチで決めよう」と書く前に思いついてしまうようだと、その文章はもう産まれてこない。書く前に筆が折れる。「このあと自分の指はどこにたどり着くのだろう」という心地よい不安がないと、第1区~第3区くらいでぼくは文章に飽きる。理想をいうと第5区の山登りの時点で「あ、ここを登ってここを下るのか」がようやくわかる、くらいがいい。そうすると、復路第6区の山下りで自分の文章がどんどん加速していって、第8区くらいでさらにサプライズが待っていたりして、ゴールの大手門付近では笑顔になれる。




序盤きちんと熱中して没入するということ。


中盤、自分できちんと驚くということ。


後半、きれいに風呂敷をたたむために、弱拡大視野と強拡大視野とをこまめに切り替えるということ。




これらがうまくいっているときは、だいたい、自分が気に入る文章ができあがる。さほどいっぱい経験してきたわけではないが、今後いっぱい経験できたらいいなということをいつも思う。