書くことにより浮き立つものもあれば、文字を重ねることで埋没してしまうものもある。
書いて明らかになることのほうばかり取り沙汰される。書いて応援、とか、書いて告発、とか、書いて分析、とか、書くとは世の中を「あかるく」することだと言わんばかりだ。
でも本当は書くことで「くらく」なることもある。よくも悪くもだ。
とても繊細な切り口で、AとBの間にある「あわい」を書いたものがあるとする。そのとき著者はおそらく、「あかるく」しようとは必ずしも思っていない。
くらいものをくらいままに描写するぎりぎりのラインを探る。「くらさ」を表現する文章というのがある。
ところが、「書くことはあかるくすることだ!」としか思っていない人がそこに群がってくると、けっこう、やっかいなことになる。
後からやってきて文字を重ねていく人たちのほとんどは、「あわい」を踏んで固め、間を埋めようとすることがある。すきま、クレバス、彫刻刀の痕、刻印、そういった部分に乱暴に土砂を流し込んで、平らにならしてしまう。
「ほら、これであかるくなったろう」
「もう、ひっかかりはなくなった」
などと言う。
書いてあかるくすること、陰を照らすこと、ここに暴力がある。「そうだね」と言っていただけないとこの先の話は読んでもつらいだけだ。「あかるくすることの何が悪いんだ」と心のそこから信じている人は、夜行性の生き物たちの目をつぶし、肌を焼いてしまう。
「あかるくしない文章」を忘れないようにしていたいと思う。かなり気を付けて探し回らないと、そういう文章は、そもそも闇に紛れてじっとしており、こちらにはなかなか近づいてこない。手を振ってこちらに駆けてくるような文章ばかり読んでいると、いつしか白がハレーションを起こして、世の中にある輪郭がいろいろすっとんでしまう。そういう理解をしている。そういう覚悟もしている。