2022年10月17日月曜日

病理の話(706) 病理医の勉強手段について

病理医と言ってもいろいろな働き方があって、大学で基礎研究をメインでやっている人、病院に勤めて病理診断をやっている人、資格だけ持ってたまに病理診断のバイトをしているけれど実際にはあんまり関係ない別の仕事に忙しい人など、けっこう人それぞれ、さまざまである。

その上で、これからぼくが話すのは、あくまで「病院で病理診断をする医者」に関する話だ。該当する人は日本全国に何人いるのかな。2000人いないかもしれない。1500人くらいかな。

というわけで1500人が「そうだね」とか「そうかな?」とか言う話をします。

「病理診断医はどうやって勉強をするか」。




大前提として、この仕事、一生勉強しないと普通に仕事が続けられない。「すでに勉強した内容」だけで仕事ができるのは5年くらいだと思う。たとえばぼくが今日勉強をやめたら、5年間はそのままプロっぽい顔で働き続けられるけれど、それ以降はだんだん仕事がうさんくさくなっていく。そういうタイプの仕事はあちこちにあるけど、病理医もご多分にもれず、資格をとればそれで終わりという仕事ではないです。



「勉強し続けなければいけない理由」は大きく分けてふたつ。

ひとつは、「扱う病気の数や内容が膨大だから」。学び続ければ学んだだけ修得できる内容も増える世界だ。だから勉強しつづけよう、ということ。

でも、これについてはあきらめている人のほうが多いかもしれない。「俺はこの病院で出る検体のことだけ考える。それなら勉強しきれないってことはないから」と割り切って、病理学の全領域を相手にするのをやめる。

実際、ほぼ100%の病理医が、病理学すべての領域の勉強をすることをあきらめている。かく言うぼくも、当院で提出される機会がない脳腫瘍や腎生検の勉強はここ5年ほどほとんどしていない(全くしていないわけではない)。さすがに全部は無理。専門医を取るレベルくらいの知識はあっても、それ以上はかなり手間をかけないとなかなかたどり着けない。

だから、自分の専門性をせまーく限定する。勉強しなければいけない量を減らすのだ。病理医に限らず世の大人がみんなやっていることだろう。「餅は餅屋」。

しかし、勉強する領域をせばめたとしても、なお勉強は続けなければいけない。「勉強し続けなければいけない理由」がもうひとつあるからだ

それはなにかというと、「医学がアップデートされる」ということだ。




で、本題の「病理医の勉強の仕方」であるが、これも、大きくわけて二つある。

ひとつは、多くの人が「よいよ!」と言っている教科書を読むことだ。膨大な病理学の中には、すでに教え方が確立されているものがいっぱいある。それらをひとつひとつ読んで頭に入れて、実際の症例と照らし合わせる。この「照らし合わせる」にけっこうな手間と時間がかかる。

優れた教科書の書き方はとても上手だ。読めばわかった気になる。ただし、そこに掲載されている「プレパラートの写真=病理組織像」は、紙面の都合もあって決して多くはない。ぶっちゃけ、写真の数は物足りないと感じることが多い。

だから複数の教科書をひもといて、少しでも多くの画像を目に焼き付けていくのだけれど、それでも情報は足りない。やはり実際にプレパラートを顕微鏡で、自分の目で見て、俯瞰、近接、拡大、縮小、とにかくああでもないこうでもないと、細胞のおりなす構築や細胞そのものの性状をじっくり見定めないと、本当に教科書を理解したことにはなかなかならないのである。

じゃあ、そのようなプレパラートはどこにあるのか? 自分の施設で過去に誰かが診断したことがあれば、それを引っ張り出してきて教科書と照らし合わせる。病院によっては、「勉強用スライド」として、後進が勉強するために資料をまとめてくれている場合がある(当院にもある)。

ただし珍しい症例だと、ひとつの病院の病理検査室を30年さかのぼってもプレパラートが出てこないということがある。けっこうある。都道府県ごとに10年に1度しか診断されないような病気というのは確かにあるのだ。

そういうのに関しては、あきらめて教科書だけで学ぶか……あるいは……「もうひとつの方法」を使うことになる。




勉強のための「もうひとつの方法」とは、ほかの病理医たちが話している内容を聴く、ということである。講習会に定期的に出席する。学会の勉強用セッションに出る。オンラインでやっている勉強会に顔を出す。「教科書だけ見ていてもわからないニュアンス」みたいなものが、人の口から念入りに語られるとだいぶわかりやすい。この方法が優れているのは、いい講師ほど、「多数の写真をプレゼンしてくれる」ということである。

ただし、人の口から聞くことには弱点もある。それは教科書ほどの「量が学べない」ということだ。念入りに語れば語るほど、1例にかける時間が増えて、多数例を勉強できなくなるから当たり前だろう。

でも、弱点を補ってあまりある効果もある。それは、講師自身が手に入れた最新の情報がそこには反映される、ということである。医学がアップデートされていくたびに、「これまでの教科書ではこう書いてましたけど、今はこう変わりました」みたいに、細部が変更されていくのだが、それらをリアルタイムでキャッチアップしようと思うとき、「情報の更新になれている先輩たちの口から語られる情報」を頼りにするのはとても便利なのだ。



さきほど、勉強しなければいけない理由がふたつ、「量がすごい」のと「アップデートが多い」と書いた。そしてこれらに対応するのが、「量を学ぶのに向いている本」と、「アップデートを語るのに向いている先輩」だと考えればよいだろう。本は安定した内容がまとまっており、文章が優れていて、写真が少なめだ。一方、先輩は量を語れないけれど、写真をいっぱい出してくれるし、何よりアップデートをやさしく教えてくれる。これらを使い分けるのがポイントだと思う。




「本」と「先輩」のいいとこ取りをしてくれるものはないかって?

それが「学術論文」だ。アップデートをコンパクトにまとめつつ、いい論文ならば語り口もおもしろいし、豊富な写真で深掘りしてくれることもけっこうある。

だから医者はすぐ「論文読め」「論文読め」と言うのだ。そして多くの病理医もまた、論文を読んで毎日勉強をする。でもまあそれだけだとぶっちゃけ飽きてくるから、大御所の本を読んでほっとしたり、同業者たちの話を聞いて「あーやっぱりバーバルなコミュニケーションって最高だよな」と笑ったりするのである。



※今日の話はだいぶ雑に書いてます。いつもか。