2022年10月3日月曜日

脳だけが先に出る

この年になって咳喘息を発症することになるとは思わなかった。軽症であり日常生活に支障はさほどない。横になっているとほぼ咳が出ない。つまり典型的な咳喘息とはすこし違うのかもしれない。ただ、あるタイミングで咳が出ることだけは間違いがない。もう1か月くらい続いている。

しゃべり続けていると咳が出る。Zoom会議であれば、話をしている途中で咳が出そうになるとミュートをすればまわりの人には咳の音を聞かせなくて済む。しかしリアルの会議だとそうはいかない。のど飴をなめている間は咳が出づらい。気圧が下がると咳が出やすくなる。こういった「付き合い方」を少しずつ学んで行く。病気がよくなることで楽になるのではなく、対処方法を知ることで楽になるタイプの闘病。腰痛や肩こりなどと同じように扱っていく。



「しゃべる」で思い出したことがあるので話題を変える。最近のぼくは、人前でしゃべる方法がよくわからない。より正確に言えば、自分がしゃべり方をわかっていなかったことに気づいた。誰かと和気あいあいと会話した内容が、録音・録画されていることがあり、まあSNSとか仕事とかの都合なのだが、あとでそれを聴き直すと、他の人は流れにのってわかりやすくしゃべっているのに、ぼくはどうも複数の話題を同時に語ろうとしていたり、しゃべっている途中でその話題の結末が見えると次の話題のことを考えていたり、自分だけが持つ前提によって会話の途中をスキップしたりと自由奔放なのである。音声による会話というのは不思議なもので、音声以外の(ノン・バーバルな)雰囲気がかなりその場を保ってしまうようで、ぼくが異なるレイヤーの話を混ぜてごちゃごちゃとしゃべっていても、相手はそれをほどよく取捨選択して、上手に必要な部分だけを切り出して、ぼくが触れている複数の話題に無理についていこうとせずに、メインの話題をうまく選び取ってくれている。そのために、会話がうまく成り立っているように感じてしまう。しかし実際に内容を文字に起こしてみるとぼくの発言はしっちゃかめっちゃかで、かなり「編集」しないと文章としては認識できない。そういうことがよくある。ああ、ぼくはしゃべるのがへたなんだ、と思った。そしてこれをぶっちゃけ咳喘息のように扱うしかないと思っている。対処するのだ。こういう話題のときには咳が出るようにぼくの脳が言語化より早く表に出る。それでは成り立たないものがたぶんあるので、脳がそのまま出そうなタイミングを覚えておいて、あらかじめのど飴をなめるようになんらかのギミックによって自分の会話をコントロールする。どうがんばっても脳がゴホンゴホン出てきてしまうときにはいっそ思考を臥床させて聞き役に回る。そうすれば脳は出てこなくなる。



こういったことを考えて文章にまとめたあとで読み返す。左から右に一文字ずつ進んでいく日本語文章の方向が制約となって、叛逸する思考をなんとかひとつの流れに収めようとしている。しかし、手を加えないとやはり、まっすぐの流れにはなっていない。会話ほどではないが、文章でもやはり、コントロールできていないのだろうなと思う。文章が載る場所が商業誌であれば読者のタイプにあわせてかなり手を加える。しかし、今使っているここのブログではそこまでしない。むしろ、複数のことを同時に考え、結末が見えたものをそれ以上書かず、自分の歩んできた前提を元に議論をどんどん跳躍伝導させたものを置いておきたいという気持ちがある。自分の部屋でならいくら咳をしてもかまわない、という感覚。肋骨を傷めるリスクを引き受ける。