#にじフェススクショ下手選手権 というハッシュタグが上がっていてとてもよかった。まさにツイッターならでは。
まあ、マニアックである。このトレンドを目にした人が世の中にどれだけいるだろうか、という話だ。しかしこの際そういうことはどうでもいい。
個の物語が個のまま現れているところに、笑顔を向けられるか、あるいは泣き顔を向けられるか、そういった話だ。たぶん一番コアのところにある。
國松先生のFacebookに書かれていた記事、についていた萩野昇先生のコメントにすさまじいことが書いてあって、それをそのまま転載するのはさすがにルール違反だからそのままは書かないけれど、簡単に説明する。
・どんな病気も、患者さんその人に固有の「生活史」に沿って立ち現れてくる
・ところが医学は患者さんの固有性をそのまま扱うことがむずかしい。たとえば患者さんの中でその病気がどのように変遷していき、その患者さんだけが抱える個性的な苦しみみたいなものが時間と共にどううつりかわっていくか、まではフォローしきれない
・学術的に、あるいは商業ベースで、普遍的に、医療をサービスとして行おうとすると、個別具体的なものをそぎ落として、共通性のある概念として扱うことになる
・それって私たち(※萩野先生や國松先生)にとってはちょっと苦しいことである
こういったことが素晴らしい語彙でコンパクトにまとめてあった。感動してしまった。市中で医師をやるというのはまさにそのジレンマと戦うことなのだ。ただし、もやもやとする違和を抱えてはいても、それを言葉に仕切れていなかった今までのぼくは、「何と戦っているか気づいていないうちにHPがスリップ状態(※FF)で少しずつ減っていた」と言える。ここまで言葉になるとは……。哲学者の後ろをついていったら見たこともない場所、ただし確かに通ったことがあるはずの場所にたどり着いた、みたいな感覚である。
個と個として互いを扱うことを至上の目的としながらなお、ぼくはこれからも「分類」をしていくことになる。それはなぜかというと、医療を支える者たちがみな患者に興味を持っているわけではないし持つ必要もないからで、市民が受け取るべき医療が常に個に密着した濃厚なものであるべきというのはむしろ害悪に近い「余計なお世話」だからでもあるのだが、疾病・病理というものの最後に控えている「その疾患だけに起こったできごと」までも言語化したいと欲望する病理医は、「分類してもなお個に向かう」というバランスを考えて行かなければいけないんだろうなとため息をついた。
……とこれで今日の話を終えるつもりだったのだが、送信予約を押す直前にすごくいいnoteを読んだ。直接今日の話とつながるわけではないのだが、つなげるとよいのかな、と思う。長文なのでブックマークでもしといてください。
https://note.com/ytmsm/n/n04d15e28f3c0