昔は、もう少し思考が太かった。太くて粘り気があった。ごっそごっそと思考が脳の中を動き回ると、それだけで頭が揺れるような気がしたし、さまざまなものが巻き込まれていった。番頭もカエルも飲み込んで疾走したカオナシ、あるいは陰毛を巻き込むズボンのジッパーのようだった。頭蓋骨の内側にシミや瘢痕を残して思考は暴れ回り、ときに引きちぎるような痛みを伴っていた。
あれは今よりきつかった。
自分自身に巻き込まれながら没入するのに加えて、たまに思考の喧噪から理性を分離させて、いわゆるメタ認知のようなものもやっていた。自分の「境界」を、内側だけでなく外側からもぺたぺた手で触った。手触りやら硬さやらもろさやらを確かめた。これくらい押しても戻るんだな、とか、これ以上引っ張るとちぎれるんだな、みたいなことを知らないうちに試行錯誤していたのだろう。自分の輪郭がどこにあるのかを知るために必要な、しかし過剰なプロセスであった。あれは青春だったのだと感じる。
最近思う。
メタ認知メタ認知と訳知り顔で有料ノートに記すタイプの実業家たちは、通り一遍の自己分析をかっこよく言い表すために、ちょっと流行っている言葉を便利遣いしているにすぎない。
メタ認知しましょう、それがクリエイティブの秘訣! なんて言っている人が例示しているメタ認知なんて所詮はプラセボである。本当にメタ認知していたら、ライフハックを有料noteにして創作者のタマゴから金をむしろうなんてことができるわけがない。
自分のやっていることを、幽体離脱した自分が見下ろすかのように俯瞰して眺めようとすると、離脱した自分とその場に残っている自分とのあいだで必ず摩擦が起こる。
「てめぇ、同じ俺のくせして何を上から目線でえらそうに語ってんだよ」
これが起こらないならばそれはメタ認知ではなくて単なる「日記」である。
自分を応援する自分と引き留める自分、分析する自分と没頭する自分、情熱を燃やす自分と韜晦する自分。観察するために距離をとった瞬間に陽電荷と陰電荷に分かれる。分かれた瞬間から激しく引き合って、でもひとつになると消滅してしまう気がして互いの周りをぐるぐる周りながら合一を拒み続ける。
書いていて思うが、メタ認知というのは、自分でしようと思ってするものではなく、まず自分の分離ありきなのではないか。葛藤が起こって心が内部で分裂し、分かれたがために目も増えたので、じゃ、ま、そういうことでしたら……と精神をどこかに置き忘れてきたオカリナ(お笑い芸人)のような顔で、ふだんは鏡を通してしか見られない自分のことをコピーロボットの自分によって見てみようとする行為がメタ認知なのだ。転んでもただでは起きない緊急企画、それがメタ認知の正体なのだ。「メタ認知すればいいことがある」みたいに言うやつは何もわかっていない。
何かを考えると矛盾に気づく。そして、矛盾の数だけ自分が分裂する。このとき、幽体離脱として部屋の上に登っていけるわけではなくて、どちらかというと、自分の左後方あたりにスッと立つ自分が唐突に現れるかんじ。それはどうなの、といきなりこっちを指さして反論してくるかんじ。あわてて振り向くと、脳内で走っていた太い思考がギュンと遠心力で頭蓋骨に叩きつけられる。オフセット衝突みたいな位置関係で分かれた自分と見つめ合う。メタ認知とは自分が外部にmetastasis(転移)することで生じる悪性の言動なのではないか。
相克の末に自分の境界が落ち着いた。今、中年のぼくの思考は千々に乱れて好き勝手。ひとつの太い思考があったときほど主張の強いヤツがいなくて、それぞれぼくはぼく、私は私と楽しそうに、てんでばらばら違う事を唱えながらデフォルトモードネットワークである。すべすべになった頭蓋の内側で、エントロピーが高まりつつ、熱エネルギーは少しずつ漏出していっている。
これが人生なのかもなと感じる。