自分が忙しい理由をつらつら書いていたけれど、このまま書き進めても一本の記事にはならないと思って、だいたい2ツイート分くらいの文章を消して、また書き始めたところである。多くの場合、2ツイート分くらい書くと、そのまま続けて書いて最後まで行けるかどうかがわかる。
何に対しても言えることかもしれない。ちょっとやり始めてみることで、「あ、これ、だめだな」とか、「お、わりと、行けるか?」みたいな感覚がわりと早期にわかる。最初の2ツイをひとまず書いてみることが大事だと思う。ツイートや文章に限らず、何につけても。
今、2ツイート分書いてみて、なんとなくこのまま書けそうだなと思ったので、今度は最後まで書いてみる。
もちろんいつもこの2ツイ予想がうまくいくわけではない。特に、「なんかこれおもしろくなさそうだな」と思っても、がまんして書き続けていくうちに何かが出てくることはあるので、毎回2ツイで先をあきらめているわけでもない。アニメの第1話を見て「つまんなそう」と思っても何話か見ているうちにおもしろくなってくる、みたいなこともある。「2ツイ」にもそういうところがある。
首を捻りながら何千字か書いてみて、うーん、イマイチだなと思って、でもせっかく何千字も書いたからこのまま書き進めていちおう形にしてみるかなあ、と、1万字を少し越えたあたりで、あれ、けっこういいことになってきたぞ、みたいに感覚が反転して、最終的にわりとお気に入りの原稿になる、みたいなことも年に1,2回はある。2ツイート分ではまるで見えず、数千字くらい積み重ねてはじめてそこからうねり出すものもあるということだ。だからたまには2ツイであきらめずに、コツコツと量を書いてみたりもする。
ただし、コツコツしすぎて、あまりに時間をかけて暖機運転をしてしまった文章は、いまどきだと読む人がいない。助走が長すぎるのはよくない。そこで、コツコツ書いているうちになんだか後半から良くなったなあと思ったら、そのまま最後まで書き終えてから、序盤の部分を大幅にいじることになる。「後半良くなった文章」を用意して、それを見ながら前半部分を入れ替えていくわけである。これはわりとうまくいく。明確なゴールが見えていたほうが文章を当てはめやすいということなのだろうか。
いっそのこと、最初にゴールの文章を書いて、それから最初に戻って書いてみればよいではないかと思うのだけれど、それをやるとぼくの場合は、めちゃくちゃ「ネットにありそうな文章」になってしまう。「AIに書かせた文章」と言ってもいい。すでに世の中にあるものの「最大公約数」のような雰囲気がにじんでしまうということ。
それがわかっているから、ぼくはゴールを設定してから文章を書くことはめったにない。
学術的な文章ならば、ある意味「ゴール」は決まっている。データが先にあって、それを示すための文章だからだ。しかし、今書いてみて思ったが(これも書いたからわかったことだ)、データがそのまま文章になるわけではない。データイコール文章のゴールではない。結局、論文であっても、先に考察の末尾の文章を書くようなことはせず、冒頭からきちんと組み立てて書いていく。そのほうがどうやら性に合っている。
そうして、最後まで書いたあとで、冒頭から見直して、「なんでここ、こんなに遠回りに書いてんだ」みたいなところをばさばさ刈り込んでいくのが最近のスタイルである。最初から最短距離では走れないし、寄り道しすぎな部分におそらく本当のぼくが潜んでいる。