病理診断はひとりでやるとけっこうミスる。診断の大事な部分をごっそり間違うというのはプロとしては致命的であり、あんまり起こってほしくないし起こらないように気を付けるとしても、小さいミスはそれなりの頻度で起こる。たとえばこういうやつ。
×「断端は院生です。」
○「断端は陰性です。」
いきなり大学院生が出てきて笑ってしまうわけだが、しかしこの誤字、冷静に考えるとけっこう難しくて真顔になってしまう。なにせ、一文字目のこざと偏も二文字目の「生」も共通しているので、サーッと見直すだけだと誤字っていることに気づかない。困ったものだ。
誤字くらいいいじゃない、みたいな感覚の人もいるかもしれないけれど、文字で多くを伝えなければいけない病理診断報告書で文字を間違うというのは普通に冷や汗案件である。
たとえばある癌の診断をする際に、箇条書き項目のひとつに「pT1a」と書くべきところを、うっかり「pT1b」と書いてしまうと……たった1文字の違いなのだが……その後の治療がガラッと変わるなんてことが普通にある。手術をひとつ追加するかしないかくらいの大げさな違いがある。一文字たりとも気は抜けない。
とは言え。
病理医は基本的に「自分は書いている文字をまちがう生き物です。」という看板を首から提げながら暮らすべきである。
人間は必ず間違う。そのことを織り込み済みで仕事をする。必発するヒューマンエラーを、システムでカバーする。システムと書いたけれど実際にはわりと単純で、「もう一人の病理医に見てもらう」。これだけでだいぶミスは減る。
逆に言えば、「病理医がもう一人いない環境」で働くのはすごく辛いということだ。「一人病理医体制」は本当にきびしい。たった一人で毎日何十枚ものレポートを書いていると、数日に一度の割合で誤字を起こす。だから、自分でいったん書いたものを、時間を置いてまた見直すようにする。セルフ・ダブルチェック。これだと時間が2倍かかるので仕事量がえらいことになるが、いわゆる一人病理医はみんなこの種のダブルチェックをやっている。ていうか、たまに「ダブルチェックなんてやっていない」という病理医もいるが、そういう人の診断書はすぐに誤字を出すので、その界隈で有名になっており、評判も下がって、いつしかいなくなっている。
さて、誤字などのミスを防ぐために複数の病理医で同じプレパラートを見ていると、誤字自体はだんだん減っていくのだが、なかには「何度言ってもなかなか直らない、その人に固有のミス」みたいなものが浮き彫りになったりもする。
たとえば、「書くべき『あの所見』をいっつも書かない」みたいな。
何度指摘しても胎盤病理における有核赤血球を書き漏らす。昨日も言われたばかりなのに左側結腸のパネート細胞を記載し忘れる。
こういうのは誤字よりもしつこいのだ。なかなか直せないタイプの悪癖である。
かく言う私自身も、ボスに何度も同じ間違いを指摘された。
その経験を踏まえて今、自分より下の人間が何かを間違ったときに、心がけていることがある。まあボスの真似なのだけれども。
とにかく、「同じ事を何度も言うことにひるまない」ことが大事なようだ。
「何度言えばわかるんだ!」は論外。「昨日も言ったけどさあ」くらいのイヤミもやめておく。それが、何度も間違う病理医を……いや、すべての医師を指導するときの心構えではないかと思う。
研修者が同じ間違いをしたと気づいても、指導医は最初にその間違いを指摘したときと同じテンションで、くり返し丁寧に指導したほうがいい。「前と同じ間違いをした人間性を責める」ことをちょっとでもやってしまうと、ミスそのものの詳細が頭からすっとんで、「ミスした自分」にフォーカスが合ってしまう。フォーカスを合わすならば「ミスそのもの」に合わさないと、そのミスを生じさせるに至った脳の構造みたいなものがなかなか直らない。特に、人間性を責めはじめるとぜんぜん本当に直らないのだ。
だいたい、「あいつ何度言っても直らねぇんだよな」という言い方をする目上の人間は、9割方、「それほど何度も言ってない」。一度言ってあとはめんどくさがっていることがほとんどだ。「前も言ったろ!」だけでそれ以上言わないのは単純にサボりである。
最近の人間は一度聞いただけですべてを覚える能力なんて育てていない。TikTokを見ればわかるだろう。似たようなコンテンツを手を変え品を変え摂取し続けることで次第に曲を覚えていく感じ。最初に誰が歌ってたかなんて誰も覚えていないが、「何度も耳にしたから知ってるよ」だけが残る。
「一度しか言わないからよく聞け」の理不尽さが昔から気になっていた。大事なことなら何度でも言うべきなのにそれをしない指導者のほうが悪いのである……というのを、ボスを見習いながら毎日心に刻んで指導をしている。もちろん、ときどき指導の仕方を間違ったりもするのだけれど、なるべく同じ間違いをおかさないように。