「居心地」という言葉は、心が居る地と書くのだなあということをいまさらわかる。この部屋は居心地がいいなあとか、この駅は居心地が悪いなあとか、なんとなく「場所をあらわす言葉」だと思って使っていたけれど、ほんとうは場所そのものを評価するためのではなく、場所によって動いた心のありようをあらわすための言葉である。
受け取り手のもんだい。切り取り側のもんだい。
世の中にあるあらゆる物質には無限の情報が内包されているのだが、その情報のどれを受け取れるかはもっぱら、観測者側の都合による。それまでどういう刺激・情報を感受してきたか、何を選んでどこに調整の軸をあわせてきたかによって、世の中にすでに置いてある無数の情報の中から、スキャンの範囲におさまるものだけを拾い上げていくシステムだ。
絵画を受信する訓練をしてこなかった人は絵画の持つ情報を拾えない。クラシック音楽を聴き続けてきた人でないとクラシック音楽の持つ情報を受け取れない。
このマンガが好きだと言えるのはそのマンガにたどり着いて情報を摂取するだけの準備ができているからだ。ただし、最高のマンガだなと思ってぼくが受け取っている情報は、作者が意識的に、あるいは無意識にそこにちりばめた情報の一部でしかなかったりもする。常に一部しか受け取れない。その一部だけでぼくらは人生を細かく微調整することになる。
どの場所にも、一個人が拾える以上の情報が必ず含まれている。しかし、そこにたどり着いた人の歩んできた歴史や、あるいは受容体のタイプによって、その場所に心を居着かせるだけの情報が拾えるかどうかが決まる、居心地の良さが変わる。
居心地をつくりあげるのは自分の経験と外部からの情報だ。縦糸と横糸の候補は無限にあるが、いつも無限×無限で布を織れるわけではなく、自分の経験を有限化し、外部からの情報も有限化して、選び取ったものどうしで今回はたまたまこのようなテクスチャになりました、という日替わり感覚で居心地を編む。それは血圧の薬一錠を忘れた程度でもろくもほどけてしまうこともあるし、逆に、世のどこかで大戦争が起こっていても編もうと思えば編めてしまっている、なんだか悲しい手癖の産物であったりもする。