なじみの臨床医が言う。「最近思うんだけどさあ、あの病気あるじゃん。あの少しめずらしいやつ」
ぼくは答える。「はい、ありますね。年に○例くらい見かけるやつ」
臨床医は言う。「あれさあ、病気の部分はもうだいぶ解析されてると思うんだけど、病気の周りにも特徴があると思うんだよな。」
ぼくは驚いて聞く。「えっ、そうですか? そんな話、教科書でも読んだことないですけど」
「うーん。最近はみんな病気の部分ばっかり見ているからなあ。みんな気づいていないんじゃないかなあ。広く見るといつも……いや、いつもではないんだけど……病気から離れたところに、特徴がある気がするんだ。ちょっと、病理でも気にしてくれないかなあ」
病気じゃないところか。ぼくは少し困ってしまう。病理医はいつも、「病気のある場所」をプレパラートにして顕微鏡で詳しく調べるのだが、「病気から少し離れた【背景】」については、肉眼で見てはいるけれども、必ずしもプレパラートにしていない。
だって、そこにはなにもないと判断したからだ。
でも、実際、「なにかあるか、ないか」というのは実に難しい。病理医がないと言ったらないんだ!……と、自信を持って言えたら診断はどれだけ楽だろうか。
患者からとりだした臓器をめちゃくちゃ細かく見ることにおいては、病理医ほどがんばっている職業もないと思うけれど、患者の体の中にあって、血が巡っていて、粘膜もうるおった状態で、臨床医がなんらかの手段で――それは内視鏡であっても、CTであっても、超音波であっても、なんならバリウム検査でもよいのだ――見る画像は、病理医の見るそれとはひと味違う。どちらが正しいというわけではない。さまざまな手段で、それぞれに違って見えるものなのだ。
だから、臨床医が「気づいた」ものには、きっと意味がある。たとえ病理医が気づいていなくても、そこをプレパラートにすることで、何かが浮かび上がってくることもある。
そういうとき、科学を進めるチャンスがある。
じゃあどうやって臨床医の「気づき」を深めていくか? 1、2例を見て、わかった気になってしまってはいけない。似たような症例を何十例も集めよう。そして、臨床医と共に、画像を見ながら、病理のプレパラートもきちんと作って、数を集めて解析を加える。このとき、「対照群」も用意するとよいだろう。その病気「じゃない人」を探してきて、比べてみることで、その病気「である」人との違いが際立ってくる。
「1例だけからわかる事実」なんてものはめったにない。患者との一期一会を否定するわけではない。なんらかの「法則」を見つけて、これから出会うかもしれない未来の患者に備えようと思うときには、証拠は多ければ多いほうがよいのである。そうすることで、最初は単なる「ある臨床医の気づき」に過ぎなかった現象が、いつしか、多くの人が確信して日常診療に用いることができる「診断のヒント」に昇格していくのである。