2022年11月22日火曜日

読みたさにドライブされたと感じたみ

「読みたい本を読む」と「読みたいかどうか事前にはわからない本を読む」の違いは繊細だ。

前者をやろうと思うと、世にある広告がぶっ刺さる。「そうそう! それ! 読みたかったの!!」

でも、後者のときもじつは広告がぶっ刺さる。「えっ何ソレ! 知らなかった! 読みたい!!」

「読みたい」とはそもそもなんぞやと思ってしまう。読みたいとわかってて読みたいと、読みたいかどうかわからなかったけれど読みたくなった、みたいな話がいっぱいあるからだ。心の中に確固たる「読みたい」があるというのは、幻想か?



本屋に行ってうろうろして、おもしろそうだ! と手に取った本とはそもそもどういう本か。

「本屋に行く前には読みたい本ではなかった」。でも、表紙や帯や本の置き方によってその場で「読みたい本に変わった」。

著者名、タイトル、ジャンル、書店員の作ったPOP。これらが渾然一体となって、「さっきまで読みたいとは思っていなかった本」を「読みたいものに変えた」……?

あるいは、抽象的に読みたかったものが具体的に読みたいものになった? 自分の無意識に「こういう本が読みたい」というのがじつはあって、それがまだ意識に上がってきてない状態から、本屋ではじめて意識として形成されるに至った?


どうだろう。

ピュアな「読みたさ」以外にも、広告的ニュアンスに乗っかりたい感覚で「おもしろそうだ」と言って(言いふらして)本を手に取ることもある。こういうタイトルの本ってたいてい自分に合うんだよな~、とか、こういう本を読んでおもしろいときって快感だよね~、みたいな、根拠の薄い自信・確信。

「広告にドライブされたと感じたみ」(五七五)



仲良くしている知人がすすめた本だから、普段まったく読みたいと思わない本だけれど、きっと何かいいところがあるんだろうなと思って、読んでみたけど結局ピンと来なかった、みたいな経験もある。そういうとき思わず、「本当は読みたくない本を読んだ」という表現をしがちだが、「本当は読みたくない本」なんてあるのだろうか。もう少し深度を深めて語ったほうがよいのではないか。だいいち、「知人がすすめたから」というニュアンスの「読みたさ」も実在するではないか。尊敬する学者や芸能人などと同じ本を読んでみたいという単純な欲望と、実際に読んでみたときに肌に合わなかったというズレと、そのズレを感じたときの微小な敗北感みたいなものを、「読みたい本ではなかったわ~」だけで片付けるのはもったいない気がする。




脳は無意識でだいぶ多くのことをやっていて、そのうち「整合性」があいそうな情報の群れをセットで物語にして「意識」として提示する、みたいなことをやっていると聞く。「読みたい」は必ずしも理路整然としていない。ふと浮かび上がってきた幼若な感情に理屈が伴っていないなあと感じることはよくある。「読みたい」はプリミティブだ。「読みたい」にはファジーな幅がある。「読みたい」は後付けだ。「読みたい本」ばかりではないが、読んだ本はすべて「読みたかった本」になる可能性がある。