2022年11月2日水曜日

病理の話(712) 誤診がわかるとき

ナイーブな話だけど、けっこう大切な話。

「誤診」とはなんなのか。




誤診(ごしん)とは患者の見立てをまちがうことです。

病理診断であれば、「診断名」が間違っていれば誤診だ。「病気がどれくらい広がっているか」を見間違えても誤診である。

ただ、現実には、病理診断に間違いが発生したとして、主治医や患者がその間違いに気づく可能性は少ない。

なぜ、医者も患者も「病理診断の間違い」に気づけないのか?





道ばたに草が生えていたとします。それを見てぼくが、「あ、セイタカアワダチソウだ」と言ったとします。

それが合っているかはわからない。ぼくが適当なことを言っているだけかも。正解かどうかを調べるにはどうしたらよいか?

たとえば、スマホで写真を撮影して、草木の種類を判定するアプリにぶちこむとか。

あるいは、草に詳しい専門家に聞くとか。

そうすればきっと正解はわかるだろう。

雑草のことをあまり知らないぼくが、「セイタカアワダチソウじゃない?」と適当なことを言ったら、なんらかの手段で正解を探したくなるのは人の性である。


では次に。

道ばたに草が生えていたとして、ぼくのとなりに最初から「草に詳しい専門家」が歩いていたとする。河川敷大学雑草学部の教授が「これはヤハズエンドウですね」と言ったら、ぼくはその話を信用して、それで終わりにすると思う。

それ以上混ぜっ返すことはないだろう。

雑草の素人のぼくが、横からわざわざ、「いやいやこれはカラスノエンドウではないですか?」なんてツッコミをいれることはないに違いない。だってそれはたぶん正解なのだから。



病理診断もこれといっしょである。病理医が「診断はこれです」と言ったものを、患者も、さらには主治医であっても、ひっくり返すことなんて普通はできない。専門性が違いすぎるからである。

となると病理診断に誤診はない……というか、誤診しても見つからない、ということになってしまう。

しかし現実に、低確率だが誤診は見出される。いったいどうやって?




雑草と病気の違いを考えればわかる。雑草の名前を言い当てた後に、歩いているぼくは雑草をどうするわけでもない。しかし病気の場合は「治療」をする。

そう、治療をすることで、診断の間違いがわかるのだ。端的に言うと、「診断が間違っていると治療が予想通りに進まない」。治療中に、「どうも期待していた効き方じゃないなあ」という気分を主治医が持つことで、事前の病理診断が間違っていたのではないかという可能性がようやく浮上する。

こうして「誤診」が見出されることになるのだが……じつはこの話は、言うほどわかりやすい構造ではない。



たとえば、がんではないものを「がんだ!」と病理診断してしまったとする。そして、手術でそれを採ってきたとする。がんではないものを体の中から取り除いたあとに、再発することは絶対にない(だってがんじゃないんだから)。

しかし、患者も主治医も、「がんに手術をして、何年たっても再発しないのだからラッキー」という気持ちで喜ぶ。

病気が再発しなかったからと言って、「もしかしたらあれはがんではなかったんじゃないか」などとは思わない。




つまり、「過剰診断」の誤診は気づかれにくい。現場レベルではどうやっても見抜けない誤診なのである。

もっとも、病院が20年とか30年とかデータを蓄積すると、「過剰診断による誤診」もいずれはあかるみにでる。がんじゃないものをがんと診断し続けていると、次第に、「この病院のがん手術だけ、妙に再発率が低いなあ……」というように、本来予測される統計とのずれが生じてくるからだ。

もちろん、そこには、手術をした外科医の腕がいいから再発が少ないのではないかといった、別に考えなければいけないファクターがいっぱいある。でも、丁寧に調べて続けていくと、長い時間を経てから「病理医の誤診」が浮上してくることはある。

ただ、誤診がわかったころには病気の概念も、診断基準も、まして診断した病理医自体も入れ替わってしまっていることも多いのだが……。




結局、病理診断というものは、病理医が強い義務と責任をもって自分の診断をチェックし続けないとだめなジャンルだと言える。独りよがりではいけない。専門家の言うことを黙って聞け、みたいな診断は論外だ。常に他者の目による監査がのぞましい。主治医たちとも何度もコミュニケーションをとる必要がある。ちょっとでも彼らが「あれおかしいんじゃないの?」という気持ちになったら、スッと相談に乗る間柄でいなければいけない。そうして、ときに自分の診断のずれを自覚し、他の病理医たちとも「目合わせ」を怠らないようにすべきだ。病理診断という医療の「判決文」は、どこまでもどこまでも丁寧に出し続けていく必要があるのだ。