2022年11月30日水曜日

病理の話(721) 浸潤と確率

病理医が日常的に気にしている「キーワード」みたいなのがある。

「浸潤の有無」である。

しんじゅんのうむ。説明が必要だろう。



病理医の行う病理診断では、患者からとってきた検体を顕微鏡で見るなどして「病名を付ける」。このとき、およそ半分強の症例で、「がんか、がん以外か」を見極めようとしている。その病気ががんであることの確定は、たいていの場合、病理医が担う。なぜなら、ある病気ががんであることを確定するには細胞まで見る必要があり、細胞を見るというのは病理医のメインタスクだからだ。

細胞の風体やふるまいを見てがんかどうかを決めるにあたって、我々病理医が重要視するのが、その細胞が周囲に「しみこんでいるかどうか」である。

細胞がどこかにしみこむことを「浸潤」と呼ぶ。むずかしい言葉を使いたいのは学者のさがだ。



人体の細胞は、正常であれば、「居場所」を厳密に守る。皮膚の細胞が胃に生えることはないし、脳細胞が肝臓で育つこともない。しかし、ヤクザ化した細胞であるがん細胞は居場所を守らない。胃の粘膜から発生しておきながら、粘膜をこえて周囲に浸潤(しみこみ)し、血管やリンパ管の中に入り込み、リンパ節や肝臓、肺、骨などへと転移していく。本来の居場所を守らずに縦横無尽にしみこんで「のさばる」ことで、体内の栄養を奪い、周囲の細胞とケンカをし、人体の警察官である免疫とバトルをして、最終的に人体を死に至らしめる。


「がん死」を少しでもふせぐ、あるいは先延ばしにするために医療が行われる。なるべくヤクザ(がん細胞)の分布を正確に把握して対処するのががん治療だ。ヤクザが一部分にまとまっているのであれば、その部分を手術でとってしまえば周囲への被害は最小限で済むし、ヤクザが全国(体中)に散らばってしまっている場合には、一部を手術してもあまり意味がないので、広範囲に効く抗がん剤などを使用することになる。



というわけで、「浸潤」とはすなわち「ヤクザ仕草」である。がん細胞がばりばりと周囲にしみこむ姿は、CTスキャンや超音波検査、内視鏡検査などでも見ることができるので、とりわけ病理医だけが確認できる仕草というわけではないのだが、「今まさに周囲にしみこみはじめたがん細胞」というのを確認できるのは病理医くらいだ。ミクロレベルで浸潤しはじめました! というタイミングでがんを捉えることができれば、その時点で治療することで、患者の命を救えることも多い。



ただし、ここでひとつ、注意点がある。周囲に浸潤しはじめたがん細胞は、まだ「わるさをしはじめて間もない」わけで、逆に言えば、その時点では「転移していない」。浸潤と転移こそががんの本質的なヤバさなのだけれど、転移していないとなると、それはがん以外の病気とどう違うのかという話になる。

ヤクザの例えでいうと、「ヤサを一歩出たタイミング」で逮捕していいのかという話になる。お前、悪そうな顔してドアを開けて出てきただろ! で逮捕してよいか? ヤクザの側もだいぶゴネそうだ。まだ何もしてねぇよ……と。



では警察はそこでヤクザを見逃していいだろうか?

ここで、いかにもやっかいな、「統計」という言葉が登場する。確率で考えるのだ。「ヤクザがヤサを出る仕草を示した場合、10%の確率で、駅前の繁華街にショバ代を集めに行って人びとに迷惑をかける」というように、これまでそのような仕草をしたヤクザが後にどういう振る舞いをしたかを、データで突きつけるのである。


えっ10%……? と思われるかもしれない。ヤクザ……がん細胞が周囲に浸潤をはじめた段階では、転移のリスクはそれくらい低いのだ。だったらもう少し放っておいてもいいんじゃないか、という考え方も、できなくはない。ただしここで10%の確率で起こることとは、患者の命を左右することなのである。0.00○%くらいの確率でしか当たらないロト7すらみんなホイホイ買うのに、10%の確率で命が奪われるかもしれないと言われておびえない人がいるだろうか? ……いるんだけど、そこはもう、本人の価値観なので、医者と患者とで話しあって決めていくしかない。


CTや内視鏡などで肉眼的に確認できる浸潤や転移と異なり、病理医がミクロを検索してはじめてわかる浸潤というのはこのように、「ヤクザが将来悪さをするかもしれない仕草」であったりする。ただし、臓器によって、病気によって、がんの種類によって、どれくらい浸潤したらどれくらい転移の危険があるかというのはさまざまだ。医療の世界では無数の統計が管理されており、過去にこういうヤクザのこういう仕草がどのような結果になったのかを緻密に集計してある。浸潤イコールぜったいにやばいとは言いきれないが、浸潤イコールある一定の確率でやばいことが起こる、という感覚だ。こうして現代の医学はだんだんと歯切れの悪いことばかり言い始めるようになるが、勘弁して欲しい、そうでもしないと、ヤクザを早めに取り締まることなんでできないのである。