2022年11月29日火曜日

にせものの怒り

小説や映画などを体験したあとに延々と不満を書き綴るタイプの人というのがいて、おそらくそういう人は文芸や映像に限らず、たとえば絵画や音楽などでもいるだろうし、あるいは政治とかにも向けられるのではないかと思うが、とにかく何か自分の摂取したものに対して怒りを表明するムーブがわりと普遍的に存在する。


で、最近そういうのを見ていると、ときに、ああこの人は思いっきりこれらの芸術に「心を動かされてしまった」のだなあと感じることがある。


それは必ずしも創作者が意図していた通りの感想と同じではないのだろうけれども、創作者の意図イコール芸術性ではないと思うし、動いたならそれは芸術自体が持つ力だよなあと思う。作者の意図とは関係無しに、作品自体の内包する「心動かし能力」こそに神が宿っている。それは女神かもしれないし鬼神かもしれない。芸術作品を見て正だろうが負だろうが、とにかく動かされてしまった人は、どっぷりとその作品の射程圏内に捉えられていると考えるべきである。仮に不満タラタラであったとしても芸術性に当てられているというわけだ。なぜこんな書き方をするんだ、どうしてこんな描き方でいいと思っているんだと、創作者に対する不満や怒りを猛烈に書き殴っている人の心には「二次的な創作の嵐」が吹き荒れている。それはひとえにその人が言うところの「つまらない作品」「できの悪い作品」とやらが世に出されたからである。たぶん、そういう怒りを呼び起こすような作品は、ある意味ですばらしい芸術なのだ。

誰もが、作品がなければ自らの感情に気づけない。

だから、何かに怒りたい人は必ず他者の創作物を貪る。何かを表現したい人はいつしか他者の政治性あるいは社会的動静をチェックする。自分の中から吹き上がってくるものだけで何かを創作し続けることは常人には無理である。他者の創作したものに動かされてはじめて心が別の場所に行ける。慣性の法則に従って不動の状態である精神はいつも、強い外力によってようやく加速度を持つ。





ところで、私は何かを見てぶつぶつと怒り続けている人「全員」にもっとやれそのままでいいと思っているかというと、わりとそうでもない。ここで、怒り方にうまいヘタがあると言いたいわけではない。技量ではなく出発点の話だ。心が「つい」動かされてしまったために怒りが出ているというならば良いのだけれど、そうではなく、別の打算的な感情を実行するために芸術のガワの部分を借りているだけというパターンが存在する。芸術作品に不満を述べているようなふりをして自分の言いたいことを飾り立てているだけ。その芸術作品ははっきり言ってダシにされているに過ぎない、みたいな怒りが世の中にはしばしば混じり込む。こういうのは本当に参ったなあと思う。

何かの芸術によって心が動かされたことを、おさえようもなくほとばしらせて書くというのではなしに、そもそもある作品を見る前からこういう文章を世に出したいと9割方準備している「目的」が別にあって、それをうまく世に出したいと思うあまり、世の中の多くの人が心を動かされるであろう知名度の高い作品の尻馬に乗って、「見ました、ひどかったですね、ところでこういう話は他にもあって」みたいなエクスキューズをデコレーションとして用いた偽者の鑑賞文……干渉文。

「誰かの怒りに駆動されてまた他の人の心がざわめき動かされる」という構図はあっていいしあるべきだ。感情のピタゴラスイッチが次々と連鎖していく姿は殺伐としてはいるがどこか滑稽でもあるし崇高だなと感じる。しかし、多くの人が「つい」心を動かされてしまう作品だという性質だけをどこかからか嗅ぎつけてきて、自分の心は別に動いていないにもかかわらず、何かを主張するために言い訳程度に「鑑賞」し、「ムーブメント」の表層の雰囲気だけを掬ってきて、それを塗りたくることで自己の主張を虚飾するタイプの「怒り」がある。そんな「にせものの怒り」にぼくの心は動かされない。動かされたくない、のではなく、事実として動かされない。凪いでしまうのだ。やめてほしいなあと思う。時透無一郎の顔になる。