2022年11月14日月曜日

ホメオスタシスの賞味期限

小説を読みたいが、物語にどっぷり使って余韻を楽しむほどの時間となるとそれなりにしっかり予定を空けなければならず、もっか、それが厳しい。

たぶん今はそういうタイミングじゃない。

小説はもう少し先に取っておこう。本は逃げない……とも限らないが……まあ……読める日はこの先もやってくるだろう。



……と書いて、このあと、さらにいくつかの文章を書き、ブログに登録した。ところが、さきほど公開したばかりの、「1週間前に自分が書いたブログ記事」とほとんど同じことを書いていたことに気づいて、苦笑しながら文章を消去した。

まいったな、とリアルに頭をかいている。




ふと思いついたこと。

昔も今もよく読む椎名誠は、自身を「粗製乱造作家」と自虐的に呼称するほどの多筆家である。ものすごい数のエッセイを書いているので、当然のように「同じことについて書かれた記事」がいくつかある。

昔はそういうのを見ると、ああ、自分の書いた物を忘れてしまうなんて悲しいことだ、と思った。

しかし今はもう少し違う、ややポジティブな印象を持っている。ただし「自分も同じようなやらかしをした」と言いたいわけではない。ぼくの書く物が椎名誠のそれと見比べてよいものだとも思わない。

そうではなく、「なぜ同じものを何度も書いてしまうのか」ということに対する原理のようなものが見えてくる気がするのだ。


椎名誠はおそらく、書くことが「世の中に対する強い刻印」などではないのだろうと思う。仮に、彼の仕事に対するスタイルが、書くことで何かを世に残すという発想だと、同じものを二度書くことにデメリットが生じる。なにせ、それはもう「残っている」からだ。

しかし、書くことが「世の中にある凹凸をなでて確認する」くらいのものであったらどうか。

同じ観光地にくり返し訪れることではじめて頭の中に入ってくる情報のようなもの。

たまに通りがかる道ばたの点字ブロックを指で読んで質感やキメを確認し、そこから得たものを心の中に「一時的に書き留めて」おき、その印象を用いて現在の自分を少しだけ微調整してからまた先に進むような生き方があるような気がする。

そういう人にとっては、同じ思い出を何度も文章にしてもさほど気にならないし、前回書いたときのことなんて覚えていないし、何度思い出して書いても(まあ似たような文章にはなるのだけれど)毎回ちょっと違った自分が出力されてくる。



いいのだ。何度書いても。入力と出力のセットが毎回まったく同じということはあり得ない。読む人は「またその話題かよ」と飽きるかもしれないが、書いている人の中ではその都度微妙に異なる出力と、微妙に異なる自分の調整結果とが待っているわけで。




もっとも、かく言うぼくは、さっき同じ題材の文章を書いたと気づいてすぐさま消してしまった。べつに何度書いてもよいのに、と自分自身で思いながらも、さほどの躊躇なく削除した。

きっと、今日の感性で反射的に書き終えたものと、1週間前の感性で書いたものとが「違う結論」にたどりついていることに気づいて怯えたからだ。

自分の恒常性は1週間で崩れ去っているということを目の当たりにして、なんだか、「今のはウソだよ。」と言い捨ててその場から逃げ去りたくなってしまった。そういうことがある。そういうこともある。そういう微調整をしている。