何かをつらいと言ったり、自らを卑下したり、誰かに謝ったりしているツイートに、即座に「そんなことないですよ! 大丈夫です!」と声をかけるリプライがついていると、あー、その優しさ、手軽だなー、手間かけてないなーと感じてしまう。
大丈夫では、ない。そんなこと、ある。
いろいろ考えた末の吐露なのだ。本人は悩みに悩んで吐き出しているのだ。
そこにかける言葉として「そんなことないよ」は、共感の言葉としては0点である。
「そんなことないよ」が役に立つ場面はあるだろう、きっとそれはドラマチックで、主人公がいて、相棒がいて、克己、克服、大団円に向かって行くストーリーがあるときだ。
でも、大丈夫じゃない場面だっていっぱいある。
本人が「大丈夫じゃない」からつぶやいているときに、「大丈夫だよ」を言うことは普通に暴力なのである。しかしそれが「手軽なやさしさ」として使われているシーンを、距離感を間違えたリプライによく見つける。
応用問題として。
「自分が普通じゃないことに悩んでいる」というタイプの悩みに、「大丈夫、普通なんてないから。今は多様な時代だから」と答えることも、おそらく雑で、手間がかけられていないのだろう。
普遍はないが「普通」はある、それも人の数だけ。その人が「こういうのが普通だ」と信じていることから外れた瞬間に、つらさは吹き出してくる。
それに対して、「普通なんて自分で決めればいいんだよ!」と返すことは、一見、自己啓発本的に価値の境界線を引き直しているように見えるけれども、じつはあまり救いになっていない。他者が決めた普通にふりまわされることにつらさの本質があるところに、「自分で決めればいい」というのは、結局、その人にさらに負担を強いることにもつながる。
よく言われることだが、「つらい」には、「それはつらいだろうね」以外の返しはあり得ないのだと思う。ただし、そう返すだけならむしろ沈黙していたほうが有益だったりもする。誰かに声をかけるということは、手軽ではないし、手間はかかるし、手癖は通用しない。思索の限りを尽くさないと、その人の中で何巡もしたような、込み入った、複雑な問題に対してかける言葉としては軽すぎるのだと思う。よくそんなに簡単にリプライできるなあ、という場面を、昨日も今日も明日も、何度も何度も何度も目にすることになる。