2023年10月6日金曜日

病理の話(824) 形態からロジックを進めていくタイプの病理診断とロジックによりあらかじめ形態を予測するタイプの病理診断

病理診断は「形態診断」である。こむずかしい言葉を使ってしまったが、ずばり「細胞のかたち(形態)を見て診断をする」ということだ。

病理医にとっては、

「虚心坦懐に細胞のかたちをながめる」

ことこそが仕事の本質といえる。


病院にやってきた患者は、自分の言葉でいろいろと悩みを語る。主治医は診察や検査を通じて患者の内部に何が起こっているのかを推測する。患者と主治医(はじめさまざまな医療スタッフの)二人三脚ならぬ「n人 n+1脚」の奮闘の過程で細胞が採取され、病理医のもとに届く。

その細胞にはさまざまな「経緯」がまとわりついている。

病理診断の依頼書に、「この患者はこれこれこういう流れで病院に来て、今のところこれくらいの検査を終えており、主治医であるワタクシはこのような病気を考えていますよ」という情報が書いてある。これが「経緯」。

病理医は「経緯」を見て、しかし、いったん見なかったことにする。そして精神の重心をゼロ座標に置き直し、虚心坦懐に細胞をながめる。事前情報なしで純粋に細胞をみる。そこから得られる純然の形態学的情報を精査する。臨床の流れからは独立した、病理医だけの、病理医にしかできない判断。ここに病理医の強みがあり存在意義がある。

臨床現場が見落としたもの、臨床現場が勘違いしているもの、臨床現場が解像度的に到達しえないものを、病理という孤高の部門が独自に見出し、育て、アナザーストーリーに編む。「細胞からしかわからない情報」を患者や主治医に渡す。


ある日、患者と主治医が「これは臓器Aに発生したがんだろう」と考えて細胞を採ってきた。しかし、病理医はその「経緯」を完全に無視して、純粋な「目の力」だけで細胞をみた。すると、Aのがんとよく似ているのだが、じつはBという臓器のがんの転移だということに気づく。細胞のかたちがほんのわずかに違ったのだ。「Aに発生したがん」と、「Bに発生してAに転移したがん」では、治療法がまるで違う。その違いを見極められるのは病理医だけ。

主治医と一緒になって、「どうせAのがんだろう」と思い込んでいると、Bからの転移という診断にたどり着けなかったであろう。細胞のかたちの違いは微弱だからだ。主治医たちが99%の確率でAの病気だと思っているときに、それをひっくり返せるのは、一切の経緯を無視して虚心坦懐になれた病理医だけ、なのである。


これが本質。


そして、しかし、この話と矛盾することなく、病理医はもう一種類の思考も行う。じつは病理診断の本質は二本立てなのである。


もう一本の思考は、端的に言えば「経緯を無視しない」ことによってなされる。

患者・医療スタッフ連合がこれまで積み上げてきたストーリーを捨てない。脇に置かない。それにしっかりと乗る。先入観をたっぷり抱えて細胞をみる。

いかなる「経緯」で細胞が採られてきたのか、その背景をじっくり吟味する。当然、主治医の思考をなぞることになるが、なぞって同じ中間地点で立ち止まっては意味がない。「主治医が考えた先に病理医として歩むと、細胞はどのように見えるはずなのか?」というところまで考える。主治医よりも長く考える。「経緯がこうなのだから、こんな細胞がとられているべきだ」という目。色メガネをかけると言ってもいい。

「こういう細胞が見えるはずだ」と、思い切り重心を移動させ、勢いをつけて細胞をみる。臨床医の動きを察知してそれを乗り越えていく感覚。剣道でいうところの「後の先」に近い。後から動き出したのに先に打突する。

こちらもまた病理医の仕事の本質ではないかと考えている。



以上の二つの思考を整理する。

(1)「形態をみる→ロジックを思い浮かべる」という思考と、

(2)「ロジックを組む→形態で確認する」という思考。

この両方が病理診断において走っている。


たとえば上部消化管内視鏡生検(一般的に胃カメラと呼ばれるもの)で細胞が採取され、病理診断を行う場合、私はこのように考えている。

【形態→ロジック】(無心で細胞を見て)「核異型があるがフロント形成が甘い。背景に炎症細胞が多数認められることを加味すると、炎症に伴う再生異型だろう。ただし粘膜の深部で化生腺管とするにはやや違和感のある涙的状の小構造物があるのが気にかかる」

【ロジック→形態】(依頼書を読んで)「ピロリ菌現感染の患者、胃角付近の小弯に発赤陥凹局面。炎症性でよいと思われるが単発のため、念のため生検。十中八九は炎症性の所見が出るだろうが、横這い型の胃癌が中層や深部に這っているとしたら気を付けて見なければいけない」


この両者は同じ検体を見つつ「違う脳の使い方」をして走らせた二本のプログラムである。これらのプログラムはいずれも同じ帰結へと導かれる。

「標本を切り直し、深切り切片も作成して情報を増やし、極小のがんを見つけるための努力をもう少し加えるべき」。



最後は、病理医以外には何を言っているかよくわからなかったかもしれないが、雰囲気だけ掴んでいただければと思う。


A→B→Cという思考と、B→A→C'という思考を、なるべく互いに独立した状態で走らせて、それで結果的にC=C'だったら診断がすごく強固になる。

さらに言えば、振り返り・学習や、研究会での発表、学会での講演などの際には、「結論(診断)がついている症例からふりかえり、臨床現場ではどのようにロジックを組み立てたらこの結論にすばやく・正確にたどり着くことができたか」をなぞっていくこともある。

C→A→B、もしくはC→B→A的思考ということになろう。

なんなら、この思考も診断の際にちょっとだけ走らせている。二本のプログラム+バックグラウンドにうっすらと三本目のプログラム。

「細胞を虚心坦懐に見つつ、主治医と伴走する思考回路も走らせつつ、脳内の数%では理屈を越えた部分から超然と湧き出た診断C、C'、C''、C'''……を思い浮かべており、それぞれのCだったらどのような細胞が『見え得るか』、どのような臨床像を『取り得るか』をぼんやりと考えている」



最後のやつは余計だったかもしれない。気を付けないと誤診の元にもなる。意図的にこれをやっているうちはいいが、無意識で「理想の診断」に引っ張られているようだと危ない。そういう話を研修医にする。ぽかんとされることが多い。