ぼくが発信力をもはや持たないことを、ぼくの周囲にいる人たちも感じ始めたらしく、いままで頻繁に飛び込んできた「拡散を手伝ってください」系の案件がぱたりと止んだ。数字という価値でつながっていた人びととの縁が少しずつ切れている。
それは悪いことだとは思わない。ぼくだって「数字」のない人には仕事を頼まないのだからお互いさまである。
先日こんなことがあった。ある金曜日に、ぼく宛の連絡を代わりに受け取った人が、週末をはさんで月曜日にぼくにそのことを伝達してきた。土日が休みだというのはわかるが、だったら金曜日のうちにメール一本入れておけばよかったのに、と思う。まあ、金曜日の夜、時間外に受け取った案件を消化するのに土日を挟んでしまったということなのかもしれない。ならばしょうがない、社会人としては十分対応してくれている。でも、そのスピード感を当然と思っている人と仕事をすることで、土日もフルに使って診断以外の研究・教育・社会へのコミットをしているぼくの案件は渋滞する。その人が悪いわけでは全くないがぼくとの相性がよくない、具体的には「日数に対するセンスが噛み合わない」。なので申し訳ないがもう一緒に働けない。
これだって要は「数字」で人を切っているということだ。いい人だから一緒にはたらく、悪い人だからはたらかない、みたいな基準を採用していない。ぼくがツイッターにおける影響力を失って、そこを頼りにしていた人たちが離れていく、それと全く同じことを、ぼくも人に対してやっている。
ずいぶん前から一緒に仕事しましょうと言われていた人の案件をツイートするために、たまにツイッターを起動していくつかツイートをした。散発的に人が見に来て、かつての期待値ほどではないけれど幾人かの元に届いていく。それを見たのだろう、ふだん沈黙しているストーカーたちが元気になって、ぼくがエゴサするであろう単語をこれでもかとしのばせた誹謗中傷のツイートをして、法的処置を怖れて数時間後に消す。わりとどのストーカーもそういうことをする。ストーカーが沸くのは数字が見えるときだけだ。ぼくの声がどれだけ世に届いているのかのバロメーターのひとつが変質者の数である。
数字からは逃れられない。勉強をした時間、覚えている病気の数、診断してきたプレパラートの枚数、出してきた論文の本数、これらを元に給料をもらっているぼくが、いまさら、SNSでは数字以外の価値を求めていきたいなんて、往生際が悪いのかも知れない。ストーカーすらぼくの数字しか見ていないのだ。さもしいことである。