2023年10月26日木曜日

やっぱりぼくは博士だから

ガッちゃんの鳴き声(?)に「クピポ」をあてた鳥山明は天才だ。ガッちゃんは文明が間違った方向に進んだ際にそのすべてを食い尽くして終了させるため、神が古代に派遣した天使だという設定を、アラレちゃんWikipedia的なもので読んだことがある。背景情報のボリュームがすごい。それほどでかいものを背負ったキャラクタに、「クピポ」「クピプ」しかしゃべらせないディスコミュニケーション性を付与した鳥山明に畏怖を覚える。

神と人とは語り合える余地があるのかもしれないが(たぶんないが)、天使と人とはおそらく語り合えない。神の善性を引き継ぎつつも神ほどの完全性がない天使は、神よりよっぽど怖い。天使に対する根源的な恐怖。たとえばギャルは気軽に神という単語を使うが、天使というフレーズはあまり使わない。そのあたりの抽象的なおそろしさをギャルもわかっているからだと思う。

「ギャル」という和製英語ひとつでヤマもオチももたらしてしまうことに罪悪感を覚える。神や天使を語ることに抵抗がないのにギャルを語るときだけ圧を感じる。神も天使もディスコミュニケーションの象徴であるが、ギャルはlessnessを前提としたコミュニケーション過剰状態の象徴であるから、無理もない。

ぼくはギャルよりシャッターを下ろしがちな人びとのほうに興味がある。

コミュニケーションにかんなをかけて削りおろしていくタイプの人の心性。

昔から怖かった、いまだにそこに惹かれている。一番興味があるのはそこだ。

誰かと協働してなにかをするという場面になったとたんに「めんどくさいの檻」の中にみずからを収監させるタイプの人。

発するばかりで受け取ろうとせず、誰もが目をそらした直後から何かを受け取り始めるタイプの人。



ギャルにオタクを対置させる技法が当たり前になりすぎてしまったせいか、ギャルと真逆の行動をする人たちのことが十把一絡げに「オタクっぽい人でしょ」と語られるようになってしまった。でもそうではない。オタクかどうかは関係がない。だいいちギャルは40%くらいオタクなので対置になっていない。「オタクに優しいギャル」なんてのはふつうに同族・異家系どうしのコミュニケーションの話でしかない。

ぼくが怖くて興味があるのはディスコミュニケーションだ。くり返しになるが天使が怖い。ぼくは天使のような人が怖い。そこに一番興味がある。

天使のような人はネットには出てこない。

現実でまれに遭遇する。その話を今こうしてネットに書いている。

ネットで出会う人は天使ではあり得ない。シャッターを開けたことがある時点でそれはすばらしいことに、人なのだ。



最近のオタクはコミュニケーションをよくする。オタクイコール人付き合いが苦手な人びとというレッテルは、SNSの存在しなかった昭和における誤謬で、オタクにマッチする通信手段が少なかったから不便で困ったというだけの話にすぎない。ぼくの興味の対象はオタクではない。

会話で、ネットで、SNSで、とにかくシャッターを下ろす人。

そういう人びとが交流という光から距離をとったあと、自分の中で何を光らせることで間接照明のように部屋の中を薄ぼんやりと明るくして、そこで何を見て何を思っているのかということ。



「最近の若者はすぐ居場所探しという。居場所なんかどこでもいいじゃないか。今いる場所でがんばればいいんだ。すぐ死にたいとかいう。それは安直だ。生きていればいいじゃないか」

久々に聞いた。話してくれただけ良かったと感じる。いまどきこんなことを人前で言ったら世間から殴られまくるから絶滅したのかと思っていた。でも、いまだに、多くの人がそう感じているのかもしれない。口に出せないだけで。

ギャルにもオタクにも優しい世界が最後に見放しているのが、みずからを「めんどくさいの檻」の中に閉じ込め、檻の隙間からけだるい熱量でぎりぎり世界をのぞき見しているタイプの人。

そういう人に対して社会は未だにうまく言葉をかけられない。

教師もコンサルタントも弁護士も、医者も臨床心理士もカウンセラーも、自分の領域に引き付けながらうまいことをいうばかりで、本当のディスコミュニケーションの人たちを「ほどよく突き放したまま、それでも関わる」ということができない。

「ディスコミュニケーションの人たちからそう望まれているのだから仕方ない」というエクスキューズを、よく耳にする。

ぼくはそこが怖くて興味がある。クピポしかしゃべるつもりがないガッちゃんとアラレちゃんが仲良くしているのはまだわかる。しかし、則巻千兵衛がガッちゃんとコミュニケーションできているのはすごいなと思う。ぼくは則巻千兵衛になりたい。おそらく、ガッちゃんのなりそこないでしかないのだけれど。