2023年10月17日火曜日

病理の話(827) スキーマの違いによる診断のずれ

「そこにあるものをそのまま見ること」は、極めてむずかしい。

今日は最終的に、人間の細胞を顕微鏡で見る難しさについて語ることになる。しかしいきなりそれを語り始めるといろいろ大変なので、まず、例え話から始める。


富士山といっても人それぞれ、脳内に思い浮かべるイメージが違うだろう。静岡から見るのと山梨から見るのとではそもそも輪郭が異なる。ただしそのような「立ち位置の違い」による変化だけではない。山梨県南都留郡山中湖村平野3222番地先にある長池親水公園のフォトスポットの、まったく同じ足形の場所に立って富士山を見たとしても、その日の天気や時刻によって見え方は違うはずだ。さらには、天気も時刻もすべて揃えて条件をまったく一定にしたとしても、

・それまでに富士山を見たことがあるかどうか

・それまでにほかの大きな山を見たことがあるかどうか

・雲や植生など、富士山のまわりにあるものについて詳しいかどうか

といった、その人がそれまでにどのような体験を経てきたかによって、見え方は変わるのではないかと思うのだ。



ビデオで撮影するのとは違う、視覚情報が脳に混ざり込んで思考と一体化することではじめて「見えた」という気持ちになる脳のしくみのために、「同じ場所に立てば全く同じ見え方になる」ということはあり得ない。



今井むつみ『学びとは何か』(岩波新書)の中で、著者の今井は、幼少期の言語習得について以下のようなことを言う。

「言語というのは、単語を覚えればすぐにしゃべれるというものではない。断片的な知識を積み重ねても役に立たない。平べったい肉の小片をペタペタ上から貼り付けて大きくしていくドネルケバブのようなやりかたではだめである」

イマイチな例示だなとは思うのだが、言いたいことはわかる。


写真引用:「ターキッシュエア&トラベル」のホームページより

https://turkish.jp/turkishfood/%E3%83%89%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%83%90%E3%83%96/

あたらしい知識というのは、すでにその人の中にある思考回路のさまざまな事象と関連付けられる。たとえばぼくがセパタクローという競技を目にすると、それはバレーボールやサッカー、ドッジボールといった、すでに知っているスポーツと自動的に比べられ、「どこが同じでどこが違うのかな」「セパタクローだとほかのスポーツと比べて何がおもしろいのかな」みたいな感じで知識として蓄えられる。セパタクローを広辞苑で調べて、ほかの知識と連携させずにそれ単独で、脳の表面にぺたっと貼り付けても、セパタクローを本当に理解したことにはならない。

今井は「すでにその人の中にある思考回路」、すなわち何かを見て考えるときに用いる前提情報のことをスキーマと呼ぶ。

私たちが何かを見て考えるときに、そのものを単独で見て脳内にしまいこむのではなく、すでに持っているスキーマに組み込むかたちで、「新たな知識はすでにある知識のどことどのように関連するのか」といった感じで考えて配置するというわけだ。



話を一段戻すと、我々が富士山をみるとき、それぞれの人の脳内には、特有のスキーマが存在する。人それぞれに異なるスキーマに、視覚情報としての富士山が入り込むとき、たとえ物理的には同じ現象を観察しているのだとしても、各人のスキーマにどのように取り込まれるかはてんでばらばらだ。従って、「同じ富士山であっても人によって受け取り方が違う」ということが起こる。


話をさらに一段戻して、今日の本題はここからである。


病理医が顕微鏡で細胞をみるとき、「まったく同じ細胞」を見たとしても解釈が変わることがある。たとえば、食道がんのエキスパートで、食道の病変ばかり見ている人と、皮膚がんのエキスパートで皮膚病理専門医を名乗っている人と、婦人科病理の専門家で子宮頸部の病変に詳しい人がいたとして、この3名が「同じ咽頭の扁平上皮病変」を見ると、全員が異なる診断をする。

もちろん、一人が良性と言うものをもう一人が悪性と言う、くらいの(文字通り致命的な)ずれではないのだけれど、「前がん病変の診断基準が微妙に異なる」くらいの差が出てくる。

病理医は、そういう差がなるべく出ないよう、臓器ごとに「異なるスキーマ」を用いて細胞を見る訓練をする。しかしこの訓練は、日本語を母語とする我々があとから英語を学ぶのに似て、非常に難しい。きれいな英語を発音しているつもりでも、どうしても「日本人っぽいなまり」が出てしまうように、なるべく客観的に病理診断をしているはずが、ちょっと「なまっている」というか、ちょっと「偏っている」診断になる。

このずれをどう補正するかを極めているうちに、診断人生45年がゆるやかに過ぎ去っていく、というのがこれまでの病理医のキャリアであったように思う。

しかし今後は、もしかすると、AI診断技術がここを補正してくれるかもしれない。画像診断技術にはスキーマなんてものはないからだ! 完全に客観的な診断ができる日がくるかもしれない……!




……いや、待てよ。

AIが学習する「教師データ」に偏りがあれば、AIの判断もずれてしまうだろう。この「教師データ」とはすなわちAIにとってのスキーマなのではなかろうか?