昨日は9時に寝てしまった。だんだん持たなくなっている。2時半ころに一度目が覚めた。もしや中途覚醒かと思ったが、異様に早く寝たからいつもどおり5時間半くらい寝たところで朝だと思って目が覚めてしまったのだろう。二度寝までに30分くらい使っただろうか。次に目が覚めたのは5時半で、通算8時間くらいは寝ているはずなのだが、途中でばっさりと睡眠を断ち切られたことでなんだかあまりお得感を味わえなかった。
ヒゲを剃っていると唇のまわりになにかできている。ヘルペスだろうか。中学のとき、体調が悪くなると口の周りになにかできるのだということを担任に話して、「ヘルペスでしょうか」って言ったら、担任は顔をまっかにして「えっ! そんなわけないじゃない!」とおろおろ否定した。今にして思うとあれはおそらく「ヘルペスといえば性病」だと思っていたのだろう。学校の教師が家庭の医学に精通しているわけもないので当然の反応といえば当然だ。その担任にはずいぶんといい話を教わった。しかし後年になって、「不完全な大人がよくもまああれだけ子どもにいろいろ十分に教えてくれたものだなあ」という、ワンクッション経たあとの感想のほうがむくむくと大きくなってきた。
とんでもない教師、とんでもない弁護士、とんでもない医者、とんでもない政治家、どれもひととおり出会ったり見聞きしたりしてきた。とんでもない先生連中というのは何をもって「先生」を名乗っているのかというと、それは当然「先の生を見せてくれる存在」ということである。どこで何を学ぼうが、誰にどう接していようが、善性だけで成り立っている先生などいないし、欠落だって偏りだってやまほどある、そういうものだという「少し先の人生で待っている小さな失望と安心感」を見せてくれる存在、それが先生であった。周りの大人はすべて本質的には先生であったが、そんな、自分の足りない部分を子どもに見せてよしと思うおひとよしなどめったにいないわけで、普通は取り繕い、隠し、作り込んで、見せかけようとするわけで、そこに「先生」という呼称がコショウのように作用することで突然「見せたくない大人」が「見せつける大人」へと変貌するのだからよくできている。
ぼくらはおそらく「先生」と呼ばれなければやりたくない仕事というのをたくさん持っている。陰口を叩かれる、後ろ指を指される、後年になって間違っていたと思い返される、それをわかった上でなおエイヤッと「ここはこうです。こちらが正しいです」と存在するはずもない正義を頭上に仮固定して、反駁される前提で先の生を見せてやる、そういう存在としてある程度の時間、輪郭を維持するために必要なコショウこそが「先生」という呼び名だった。
昨晩はたくさんの夢を見て、その中には未来を予感するようなものも含まれていたはずなのだが、二度寝する前に多少なりとも覚えていたものを今はすっかり忘れてしまった。先を見るために必要なのは能力や努力ではなく、誰かの献身、傲慢、反復、懐古、それを他者の視点から俯瞰して心がすっと冷えるときの熱エネルギーの遷移によって駆動されるなんらかのモーターのようなものにつながった燃費の悪いカメラのシャッターをけっこうな指の力でしっかり押すということではないか。その誰かというのが、先生なのではなかったか。