2023年10月5日木曜日

クオリティからぼく降りてぇぃ

おはようございMAX。おやすMINIMUM。睡眠が足りていない。日中だるい。寝ている時間自体はきちんと7時間とか8時間とかもうけているはずなのだが、いわゆる、「睡眠の質が悪い」というやつなのかもしれない――。

この「睡眠の質」という言葉が、難儀だなと思う。つい使ってしまうが。


睡眠に質があること自体は医学的にもまちがいない。体感的にも質があると感じる。しかし、質がいい・悪いと口に出した途端に、シェフとかパティシエの気分で睡眠を吟味しなければいけない圧がかかってきて、それがしんどい。

質を客観評価することによる副反応。

なるべくいいほうにもっていかなければいけないムードが発生するということ。

中くらいの質なら十分だよ、というスタンスが取りづらい。それなりでいいんだよ、が言えなくなる。本来は「そこそこやりくりする」くらいでいいはずのこと。睡眠なんてのは「その日できた限りの睡眠でいいし、それでやっていける範囲で日中すごしていこう」くらいで語り終えてしまってよいものではなかったか。人体とはそれくらいの活動幅を担保してくれるシステムではなかったか。しかし、世の中に「睡眠の質」というワードが広がって以降、睡眠に対する半端な姿勢が許容されなくなったように思う。

いい睡眠をしたい、はわかる。

睡眠をよくしましょう、にはうるせぇなと感じる。




先日から札幌駅周辺で何度か飲み食いしているのだが、選んだ店がどれもいまいちだった。これは単にぼくが感染症禍の間に飲食店の情報をアップデートできなかったためなのかと思ったけれど、どうやらそうでもないらしい。同世代の友人・知人にたずねてみたところ、札幌駅まわりの再開発に伴い、周辺の居酒屋がだいぶごちゃごちゃ変化している最中のようで、ホットペッパーなどで安易に探さないほうがいいという結論になった。

さすがに駅・地下街直結のでかいビルに入ってるような、やや高めのド定番の店は盤石のようだが、土日は観光客まみれでオペレーションがぐだぐだになってしまい居心地が悪かったりするし、かと思えば平日は異様に人が少なくて店側が仕入れをサボっていて料理が出てこなかったりもする。まるで観光地のようではないか(内地の人間は札幌を観光地だと思っているが、北海道が観光地なだけで札幌は違うと思っていた。でももう違うのだろう)。

ホットペッパーだけを見るとどこもすごくきれいだ。しかし単に写真の加工がうまいだけ。魚介の品揃えが少なく、現地のお酒はぜんぶ売り切れ。東京で仕事をした夜に、予約をとらずに混雑する町をぶらつき、空席があるというだけで適当に入ったチェーン店の残念感がフラッシュバックする。「札幌なら何食ってもうまい」というのは幻想になってしまった。

……というようなことを話していたら、一人が言った。

「ネットで店を選ぶとはずれる。インスタならいわゆる口コミだから大丈夫、みたいなライフハックも通用しなくなっている。インスタが上手なだけの店が増え、ステマも巧妙で、検索には手間とセンスが必要だ。実際に体験した人から直で聞く口コミの価値が相対的に上がっている」

はーなるほど。

「あと、これは俺の印象なんだけど、『質で勝負』を声高にいう店は今全体的にヤバい」

ああ……ぼんやりしてるけど言いたいニュアンスはわかる。

産地直送、朝市直結、魚介に自信! みたいな店の、メニューの品揃えのしょぼさや接客の雑さ、掃除の行き届いてなさを見て、「質で勝負」ほど安易な売り言葉もない、ということをふわっと味わった。彼もそういうことを言っているのだろう。

なにかの質の良し悪しを語ることは「手品師の左手」だ。なにか派手な動きをすることでほかのすべてから目線をそらすためのテクニックである。

以上の話の裏を返すと、最近のぼくがいかに「質のいい店」を探そうとして失敗しているかということでもある。




「なんとなく感じがよいところ」というのをもっと大事にしたほうがいいのかもしれない。いい店に出会いたければ自分で足を運ぶ。当然のことだがネットになれすぎていた。インスタのうまさに騙されない。料理、接客、店内のきれいさ、みたいな「ステータス」を各個に思い浮かべてひとつひとつ採点しはじめた時点で、ぼくはいい店に出会う縁を失っていた。「まーまーいい感じのラーメンを食べた」みたいなことをエッセイに書く、燃え殻さんのやりくりは上手だな、とあらためて思った。