ある研究会に出ていた。その会の代表をつとめる画像診断の達人が、ちょっとした日常の愚痴を言う。
「先生に言ってもどうにもならんのですが、うちの病理はなんかなー、信頼できん」
それはたしかにぼくに言われても困るなと思いつつ、あれ、そこの病理、けっこういい人だったけどなあと思い返しながら続きを聞く。
「一番偉い○○先生だけなんですよまともに話してくれるの。下がだめだ。ぜんぜん聞いてくれん」
あーうーんそれはわからんけどやっぱコミュニケーションだよな、診断とか研究の実力以前にこういう、「臨床医とのコミュニケーション」がうまくいってないと、病理診断ってのはほんとずれていくからなあ。たぶん信頼の積み重ねに失敗してるんだろうなあ。
「ちょっと聞いてくださいよ、そいつ、ぼくらの学会の仕事の手伝い頼んでも、偉そうにそんなのできませんとか言ってくるんですけどね」
ふむ
「まあそういう偉そうなのは百歩ゆずってしょうがないにしてもね、こないだね、こんなことがあったんですよ」
ふむ
「出てきた病理診断を見てね、こっちから、『いやいやこの人はそんな臨床経過じゃないし、その病理診断はおかしいと思う、別のこの病気の可能性はないでしょうか』って言ったらね、『そんならもう一度見直してみます』とか言うんですよ。おかしいでしょう? 細胞見ていったん診断したものをね、こっちが違うんじゃないかって言ったら、見直して、それで違う診断になるって、それ病理診断の精度としておかしいんじゃないですか」
ああ、うーん、それは、うーん、確かに臨床医から見ればそういう気分になるんだろうけど、病理診断の本質的なことを考えると、いや、その病理医の言いたいこともわからなくはないんだよなあ。
そこまでの話は「はい」「ええ」「ひどいですね」「ダメ病理医ですね」とうなずきながら聞いていたぼくであったが、ここに至って、手のひらを返さざるを得ない。
「いえ先生、それについてはですね、あっいや、その病理医はなんとなくお話しをおうかがいする限りハズレの方かもしれないんですが、それはともかくとして、臨床医から情報を得ることで病理診断が変わるってのはわりとあるあるなんですよ」
「えっ……先生もそう思うの?」
「思いますね。すべての病理診断がそうだというわけではないんですが」
「……なんでさ 細胞見てるんでしょ。病気のそのものずばりを見てるんだから、こっちの情報なんかなくたって、確固たることを言えるのが病理診断のいいところなんじゃないの」
「うーん、そうですね、たとえば、皮膚疾患、膠原病、造血器系腫瘍なんてのは、病理診断が見ているのはあくまで病態の一部であったり、病気の原因そのものではなくて原因から導かれた結果のひとつだったりするんですよ」
「うん、ああまあそうか。検査学やな」
「あとは……そうですね、たとえばダイイングメッセージってあるじゃないですか」
「突然だな」
「はいすみません、ええと、ダイイングメッセージで、13って書いてあったとするじゃないですか」
「うん 13」
「でもその上下に、A と C が書いてあったら、これ13じゃなくて『B』の縦棒が離れただけじゃないか、っていうふうに解釈が変わるじゃないですか」
「ん? ああ ん? ああなるほど」
「細胞の形態って、読み方を変えることができるんですよ。好酸球がいっぱい出ているところにおかしなリンパ球が出ているとして、それはホジキン病かもしれないし反応性リンパ節炎かもしれないしIgG4関連疾患かもしれないしT細胞性リンパ腫かもしれない」
「おお、良性か悪性かすら決まらないってことか」
「それらは、病理だけで決めるのではなくて、臨床情報とあわせて決めるべきものなのです」
「なんだ思ったより病理って使いづらいんなあ」
「ええ、それはほんとそうで、だからこそ、『併せ技』とか『解釈』をうまく機能させるためには、病理医は臨床医ときちんとコミュニケーションとらないとだめなんで、結論としてはその病理医はだめですね」
「お、おう、いきなり結論が厳しいほう行ったけど、そしたら先生はもう少しこっちの言うこと聞いてくれるいい病理医ってことでいいね」
「いえそれは時と場合によりますけど」
「ケッ」
実際には、臨床医の話を聞けば聞くほどいい病理医かというと、そんなわけもないんだけど、まあ、なんか、仕事で付き合う程度には、仲良いほうがいいなとは思う。病理診断に限らず、医療は、誰か一人の豪腕でなんとかできるほど甘いものではないのだ。